唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (40) 第五講 その(1)真宗の教行証

2011-07-03 17:00:13 | 信心について

        『唯信鈔文意』に聞く (40)

     第五講 教行証の歴史のもとに その(1)

                 蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「短い偈文の中から、真宗の教行証ということを述べられておられますが、この『文意』の意味であります。したがって文字の解釈ではないわけです。文字の解釈であると思って読みますと大変難しいのであります。文字の解釈は、常識上の理解を目的といたしますので、常識ができるということで目的が達せられるわけです。

 例えてもうしますと、ノーベル文学賞というのが川端康成氏に贈られた。そうすると、川端康成という人はどんなものを書いたかということになります。その場合、日本人でもあまり知らん人が多いわけですが、早速川端康成氏の著書というものが売れるわけでしょう。売れて読んでわかるのは川端康成の文学が分かるんじゃない。書いてある物語の筋書きが分かるわけですね。常識上は。文学となったら、常識の世界では分からない。むしろ常識の世界からいうたらいかがわしいといわれることが、文学という意味では立派なことだというふうにいわれる。まあ姦通というような問題もそうです。常識的には姦通というようなことは立派なことじゃない。文学上は、姦通の文学が立派といわれると、姦通が立派だということになります。これが常識上、認められると、一般にはやることになるでしょうね。そこからよろめきということが流行する。常識というのは大体そうですね。

 それに今一つ加わってくる問題が、仏教などはもとは翻訳ですから、やはり中国の筋書き、中国人の考えに叶うた筋書きでなくちゃならんということになるでしょう。あわないものは理解が出来にくいわけです。日本人には日本人の考える考えに叶うたものが取り入れられる。あわないものは受け入れにくいということになるわけです。それ以外には受け取られる道はもう形でしかない。形は変わったものであるという意味において受け取られるわけです。便利であるとか、変わっておるとか、人の目につくとかそういうことで受け取られるというようなことがあるわけです。それで肝心の仏教そのものは、そういう面からしか理解できないということになります。そういうわけがありますので、中国・日本へ仏教が渡ってきましたとしても、やはりインドからは、そういう経典というもの、「もの」です。仏像なり、そのほかいろいろな生活用具でしょう。あるいは坊さんの生活様式、そういうものが受け取られるわけです。経典そのものは、文字に写さんなりませんから、どういうことなのだということで当てはめられる。ものならば、大体向こうにあるものと、こちらにあるものと同じものならば、すぐ当てはめられるが、向こうにあって、こちらにないものがある。そういう場合には困るわけでしょうね。そういういろんな条件というものがあって、仏教というものが翻訳されるのであります。ですから、文字の上だけで理解せられるというときには、非常にそのこころというものが取り逃がされるのであります。

 こういうわけがありますから、いま宗祖の『文意』というのも、そうしたこころですね。文字の上だけで解釈してしまえば、特別な意味だけになります。特別な範囲のものになります。特別な意味は特別な範囲だけです。

 「来迎」ということが、特別な人の来迎ですね。特別な人のご利益としての来迎です。まあ出家人のなかでも、生活も立派な生活をしておった人が命が終わりになるときに、来迎の利益にあずかるという意味で受け取られることになります。それが称名だけで来迎のご利益にあずかるのだということになりますと、称名ということで広くなるわけです。が、その称名が誰でもそうかというと、こんどは来迎ということが条件になるわけです。来迎があった人が救われるというふうに、来迎は念仏の利益であるのに、かえって来迎の利益によって往生が得られるということですから、念仏は来迎を助けるための助業になるわけです。こういうふうに狭くなります。文字の上から受け取っていけばそうなるわけです。

 ですから、こうした偈文によってあらわされておる仏のこころ、ほとけの教えのこころを述べられたのが、宗祖の言葉になるわけです。そういうことで、ここに「一乗大海」の利益ということを述べられるわけであります。

         (つづく・次回は「一乗大海」のこころです。)


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