報恩講
「不可知の執受と処と了となり。常に触と作意と受と想と思と相応す。」まで読んできましたが、相応するけれども、「唯し捨受のみなり。」と。第八識は捨受だと、ここが大事ですね。
また特に受は、遍行の心所でもあり、五蘊の一つでもありますから、この五受分別門は三能変すべてに置かれて説明されます。第三能変・受倶門は2013年2月6日~。五受相応門は2014年8月14日~の投稿を参照してください。
簡単に五受について説明しますと、ふつうは三受によって立てられます。第三能変第九頌第四句に「皆三受相応」と立てられ、遍行の受の働きは、苦受か楽受が捨受かという、この三受の感受作用は六識すべてに当てはまります。
尚、第八識及び第七識は捨受でありますが、第八識は無覆無記であるのに対して、第七識は有覆無記である。
三受を開けば五受になるわけです。苦受を開いて苦受と憂受。楽受を開いて楽受と喜受。そして不苦不楽受(捨受)の五になります。それでは何故五受が起こってくるのかということですが、『論』には「受と云うは、謂く、順と違と倶非との境相を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す」と説かれていましたように、境相によって引き起こされてくる感情ということになります。
ここが有漏の感情の発露ですね。本来は、有漏であっても、捨受であり、無覆無記なんです。
私たち一人一人の心は、捨受であり、無覆無記性を生きているのですね。それが、昨日も説明しましたが、第七識が第八識を所依として、捨受であり無覆無記性である自己を執し、不変な我を立てて苦悩を起こしてくるのです。
五受は、身で受ける身受(ミジュ)と、意識で受ける心受(シンジュ)に分けられます。
2010年6月11・12日の項を参照します。
「是の如き三の受をば、或いは各々二つに分かつ、五識と相応するをば説いて身受と名づく。別に身に依るが故に、意識と相応するをば説いて心受と名づく。唯心のみに依るが故に」。(『論』)
(このような三の受(苦・楽・捨の三受)を各々二つに分ける。五識と相応するものを身受という。何故にというと、別に身に依るものだからである。二つには、意識と相応するものを心受という。何故ならば、ただ心のみに依っているからである。)
「五識は通じて色と心とのニの依に依り、意は唯心に依る。五識が心に依るは不共依に非ず。色は是れ不共とは別の依なり。故に別に依ると言う。其の意には唯心のみあり。其の現解すべし。又解す。『対法』第一に集色の所依集無色の所依と云えり。色根の相異なり。各別に身に依ると言う。彼の疏(『対法抄』巻第三)に解するが如し。(『述記』)
『対法』第一にというところは、『演秘』によりますと、「彼の論(『雑集論』巻第一)を案ずるに云わく。色の所依を集めて身受を建立し、無色の所依を集めて心受を建立すと。釈して曰く、身心皆積集を以って義と為すが故に色と無色とを皆集と云うなり。ニの所依に従って身心の称を得。
問う。第六は七に依る、七を何んぞ心と名づくるや。集の義無きが故に。
答う。刹那相続して前後衆多なり、積集と名づくることを得。或いは本識に拠り、或いは意根の中に七と八との識に通ずるを以って、故に集心と名づく」。と説明がされています。
「別に身に依るが故に」は五根を指します。「五識は通じて色と心とのニ依に依る」と言われますように、五識は色法(物質的存在、空間的占有性のあるもの、即ち五官によってとらえられる対象。色は形あるもの。質礙(ぜつげー同時に同一箇所を占有できない性質)の意。)を依り所として存在する識です。このことから色法を所依として存在する識の受ということになり、この前五識の三受は身受といわれるのです。そして第六意識は心法を所依として存在する識でありますので、第六意識の三受は心受というのです。「意は唯心に依る」。
しかし五識も色法のみならず心法も所依として存在しています。此の事に関しては「五識は心に依るは不共依に非ず、色は是れ別の依なり」と説明されています。前五識の不共依は五根なのです。前五識と相応する受を、前五識の所依である不共依である五根によって身受といわれるのです。これは前五識の独自性ですね。第六意識にはありません。心法は前五識も第六意識にも共通の所依なのです。共依ですね。不共の識ということで、身受というのです。
身と心との受について何故に五識と倶なるを身受と名づけるのか、また、第六意識と倶なるを心受と名でけるのか、という問いもなされています。身というのは積形成していることです。いわゆる五種の色根は皆、積聚であると。五識は眼・耳・鼻・聚の義だと。積聚(しゃくじゅ)というのは、種々の要素が集まって一つのものを舌・身の五根が集まって形成されているということです。「彼の五根に依って皆、身と名づける」。そしてもう一つの説明がなされます。身というのは唯、身根に属する。その他の四は身に依るので相従って身というのである。であるので、身受というのである。
苦・楽・捨の三受を開くと五受になるのですが、五受は、身受と心受の二受に摂められるのです。身受としての三受(苦受・楽受・捨受)と心受としての三受(憂受・喜受・捨受)がいわれます。
•苦受 - 苦なる身受と憂受としての苦なる心受
•楽受 - 楽なる身受と喜受としての楽なる心受
•捨受 - 苦でもなく楽でもない身受と心受
ここは何をいっているのかといいますと、身体的な感受と心の面の感受ですね。身体的苦痛を苦受といい、精神的苦痛を憂受であるといい現わしているのです。
「不可知の執受と処と了となり。常に触と作意と受と想と思と相応す。」まで読んできましたが、相応するけれども、「唯し捨受のみなり。」と。第八識は捨受だと、ここが大事ですね。
また特に受は、遍行の心所でもあり、五蘊の一つでもありますから、この五受分別門は三能変すべてに置かれて説明されます。第三能変・受倶門は2013年2月6日~。五受相応門は2014年8月14日~の投稿を参照してください。
簡単に五受について説明しますと、ふつうは三受によって立てられます。第三能変第九頌第四句に「皆三受相応」と立てられ、遍行の受の働きは、苦受か楽受が捨受かという、この三受の感受作用は六識すべてに当てはまります。
尚、第八識及び第七識は捨受でありますが、第八識は無覆無記であるのに対して、第七識は有覆無記である。
三受を開けば五受になるわけです。苦受を開いて苦受と憂受。楽受を開いて楽受と喜受。そして不苦不楽受(捨受)の五になります。それでは何故五受が起こってくるのかということですが、『論』には「受と云うは、謂く、順と違と倶非との境相を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す」と説かれていましたように、境相によって引き起こされてくる感情ということになります。
ここが有漏の感情の発露ですね。本来は、有漏であっても、捨受であり、無覆無記なんです。
私たち一人一人の心は、捨受であり、無覆無記性を生きているのですね。それが、昨日も説明しましたが、第七識が第八識を所依として、捨受であり無覆無記性である自己を執し、不変な我を立てて苦悩を起こしてくるのです。
五受は、身で受ける身受(ミジュ)と、意識で受ける心受(シンジュ)に分けられます。
2010年6月11・12日の項を参照します。
「是の如き三の受をば、或いは各々二つに分かつ、五識と相応するをば説いて身受と名づく。別に身に依るが故に、意識と相応するをば説いて心受と名づく。唯心のみに依るが故に」。(『論』)
(このような三の受(苦・楽・捨の三受)を各々二つに分ける。五識と相応するものを身受という。何故にというと、別に身に依るものだからである。二つには、意識と相応するものを心受という。何故ならば、ただ心のみに依っているからである。)
「五識は通じて色と心とのニの依に依り、意は唯心に依る。五識が心に依るは不共依に非ず。色は是れ不共とは別の依なり。故に別に依ると言う。其の意には唯心のみあり。其の現解すべし。又解す。『対法』第一に集色の所依集無色の所依と云えり。色根の相異なり。各別に身に依ると言う。彼の疏(『対法抄』巻第三)に解するが如し。(『述記』)
『対法』第一にというところは、『演秘』によりますと、「彼の論(『雑集論』巻第一)を案ずるに云わく。色の所依を集めて身受を建立し、無色の所依を集めて心受を建立すと。釈して曰く、身心皆積集を以って義と為すが故に色と無色とを皆集と云うなり。ニの所依に従って身心の称を得。
問う。第六は七に依る、七を何んぞ心と名づくるや。集の義無きが故に。
答う。刹那相続して前後衆多なり、積集と名づくることを得。或いは本識に拠り、或いは意根の中に七と八との識に通ずるを以って、故に集心と名づく」。と説明がされています。
「別に身に依るが故に」は五根を指します。「五識は通じて色と心とのニ依に依る」と言われますように、五識は色法(物質的存在、空間的占有性のあるもの、即ち五官によってとらえられる対象。色は形あるもの。質礙(ぜつげー同時に同一箇所を占有できない性質)の意。)を依り所として存在する識です。このことから色法を所依として存在する識の受ということになり、この前五識の三受は身受といわれるのです。そして第六意識は心法を所依として存在する識でありますので、第六意識の三受は心受というのです。「意は唯心に依る」。
しかし五識も色法のみならず心法も所依として存在しています。此の事に関しては「五識は心に依るは不共依に非ず、色は是れ別の依なり」と説明されています。前五識の不共依は五根なのです。前五識と相応する受を、前五識の所依である不共依である五根によって身受といわれるのです。これは前五識の独自性ですね。第六意識にはありません。心法は前五識も第六意識にも共通の所依なのです。共依ですね。不共の識ということで、身受というのです。
身と心との受について何故に五識と倶なるを身受と名づけるのか、また、第六意識と倶なるを心受と名でけるのか、という問いもなされています。身というのは積形成していることです。いわゆる五種の色根は皆、積聚であると。五識は眼・耳・鼻・聚の義だと。積聚(しゃくじゅ)というのは、種々の要素が集まって一つのものを舌・身の五根が集まって形成されているということです。「彼の五根に依って皆、身と名づける」。そしてもう一つの説明がなされます。身というのは唯、身根に属する。その他の四は身に依るので相従って身というのである。であるので、身受というのである。
苦・楽・捨の三受を開くと五受になるのですが、五受は、身受と心受の二受に摂められるのです。身受としての三受(苦受・楽受・捨受)と心受としての三受(憂受・喜受・捨受)がいわれます。
•苦受 - 苦なる身受と憂受としての苦なる心受
•楽受 - 楽なる身受と喜受としての楽なる心受
•捨受 - 苦でもなく楽でもない身受と心受
ここは何をいっているのかといいますと、身体的な感受と心の面の感受ですね。身体的苦痛を苦受といい、精神的苦痛を憂受であるといい現わしているのです。
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