唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第四 五受分別門 唯捨受相応 (8)

2015-10-17 15:51:21 | 初能変 第四 五受分別門
 

 外の妨難を釈す。
 説一切有部からの論難を釈していきます。
 有部の教学は、捨受をいいません。有部は五蘊・十二処・十八界という分類から、六識のみを説いて、六識でもって心の体系を立てていきます。当然、第七識・第八識は説きませんから、現行の果は、善悪業の異熟果にあり、善因善果・悪因悪果という等流因・等流果で、総報の果を捨受とは説かないのです。
 それに反して、唯識は、八識を説きますから、総報の果としての第八異熟識は捨受(真異熟)であり、苦・楽の果は異熟生で、六識で受けると説きます。
 真異熟(第八識の受)は捨受。
 異熟生は、苦・楽・捨の三受と説いています。

 このように、有部からみれば、唯識の説く第八異熟識は捨受で有るということは許すわけにはいかないのですね。論難の主旨は、捨受というのであれば、禅定の世界のことであろう。善業の果として受ける世界は、寂静であるから捨受(色界第四禅天に生まれた場合)といえなくもない。しかし、悪業の果報としての捨受はないであろう。悪業の異熟であるならば、それは苦受であろう。悪業を以て寂静の果を招来すると、どうしていえようか、ということです。
 「若し爾らば、如何ぞ、此の識亦是れ悪業が異熟なる。」(『論』第三・四右) 「述して曰く、薩婆多等此の難を為すなり。彼の部の難じて云く。捨受は寂静なるを以て善業の調順(チョウジュン)なるのみ、能く之を招くべし。如何ぞ逼迫の業を以て亦寂静の果を招くと云うや。此れは彼(有部)の宗に依って、故に以て難を為す。」(『述記』第三末・二十五左)
 調順とは、九種の心住(シンジュウ)を説く中の一つ。心住は、奢摩他(止)を修することによって寂静となった心の在りようをいいますが、その中で、調順とは、外的な感覚の対象や、内的な煩悩の為に流散する心を制御・抑制して心を平静ならしめる作用をもつ。
 
 有部の考え方は、私たちの考え方と類似していますね。良いことをすれば、良い結果が生まれる。悪いことをすれば悪い報いを受けることになる。そんなことをしていたら地獄に堕ちるぞ、と。その地獄は苦の世界ですね。この論法を以て論難してくるわけです。
 因は善か悪であって、その当体の異熟は楽か、苦であろう、善因楽果・悪因苦果が大前提ですから、悪業の果報としての第八識は、当然苦受でなければならないはずです。苦受でなければならない第八識の果報が捨受とするなら、第八識は異熟果の識とすることはできないであろう。そして、異熟果としての第八識であるならば、第八識の受は捨受であってはならないのである、と批判してくるのです。
 の批判に対して、論主は有部の教説から翻って質問を提起し答えられます。これを「返質(ヘンゼツ)して答す」と云われています。
 答えは、悪業も又捨受として許されるべきである、と。
 それは善業が捨受を招くと有部も認めているのではないのか、悪業の果法は苦受であるというのであれば、返って質問をするが、悪業の果も又捨受を招くと許すべきであって、その逆はないであろう。
 「既に善業いい能く捨受を招くと許さば、此も亦然りうべし。捨受は苦・楽品に違せざるが故に。無記法の善・悪倶に招かるるが如し。」(『論』第三・四左) 「述して曰く、即返質して答す。既に善業能く捨受を招くと許さば、此の不善業も類するに亦然るべく能く捨受を招くべし。」(『述記』)
 ここまでは、有部の教説から、悪業も亦捨受であると反論しているわけですが、捨受であることの理由は、
 「捨受は苦・楽品に違せざるが故に。無記法の善・悪倶に招かるるが如し。」
 で、異熟識が捨受であるから、六識の受が苦であることも、楽であることもできるのである。つまり、阿頼耶識の捨受が根拠となって、第六識は苦・楽を受けることが出来るといっているのです。
 もし、捨受でなく、果法が苦であれば、楽をうけることはないわけです。苦からの解放はありえないということになってしまうわけです。「捨受は苦に違せず。捨受は楽に違せず」ということなのです。
 現行識は七転識ですが、第八識で受ける果報は捨受であり、無覆無記なんです。過去の業を引きずってはいますが、生きるということで、過去の業を清算しているのです。過去の業の結果として、今・現に、ここに存在していることは間違いのないところですが、今、何処に向かって歩みを進めるのかが問われているのですね。問題は第七末那識ということになりますね。
 第七末那識は、遍行の五と別境の慧(悪慧)と四煩悩と随煩悩の不信と懈怠と放逸と惛沈(コンジン)掉挙(ジョウコ)と失念と不正知と散乱という十八の心所と相応して働く、自己執われる心ですから、現行する時に、受は愛(渇愛)の依り所となるのです。捨受が第七識に色付けされ、第六識によって苦・楽を感受されることになるのですね。第七識は「恒に審に思量を以て性と為す」といいますから、恒に自分を意識し、自分の思うような生き方をしたいと思っている自分に出遇うことが出来るのが、異熟識が捨受であるということなんでしょうね。
 善業・悪業によって招ねかれる異熟識は無覆無記なんですね。第八識が無覆無記ですから、善にも、悪にも相違せず、第六識が善にも悪にもなり得るわけです。この善にも、悪にもなり得るところに、大事な意味が隠されています。
 「無記法をば、(善業と悪業)の二号を以て倶に感ずるが如し。二に違せざるが故に。寂静を以てのみ捨を解さず。亦悪業に通じて感ずるものなり。中容の行を名づけて捨とするが故に不善にも通じても招くを以てなり。」(『述記』)
 深い意味が込められています。
 捨受は、六識で感ずる、善悪業の果である、楽果・苦果を通してしか触れていくことが出来ないことなんですね。触れた世界は無覆無記である。無覆無記の世界に触れて、「我が身は」という自覚が生まれてくることになるのでしょう。この自覚が、往生浄土の道を歩ませることになるのですね。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿