第八識は五遍行と相応し、他の心所とは相応しないと云われていますが、何故相応しないのかですね。他の心所とは、別境・善・煩悩・随煩悩・不定です。この中で不定が解りにくいのですが、不定とは『三十頌』では「不定というは、謂く悔(ケ)・眠(メン)と尋(ジン)・伺(シ)とぞ」。二に各二有り。」と説かれています。
「已に二十の随煩悩の相を説けり。不定に四有り。其の相如何。」(『論』)
「頌に曰く。不定とは謂わく悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とのニに各々ニあり」(『論』)
「ニ各ニ」(ニに各々ニあり)は不定の意義を顕わしています。
「論に曰く。悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは善・染等に於いて皆不定なるが故に。」(『論』)
善・染等皆不定」といいますのは、此の三界と性と識は皆、不定であるからと云われています。善・悪・無記の三性において、染は不善と有覆無記を表しますが、それが定まっていないということになります。不定の四は三性を通じて性格が定まっていないのです。「信等」は善の心所ですから、いつも善です。また「貪等」の煩悩は染の心所ですから、いつも染です。しかしここでいわれる不定の四はどちらにも動くのです。どのようにでも変わり得る性格をもっているのが、悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)の不定の心所であるといっているのです。善につけば善になり、染につけば染になるという性格です。詳しくは、2010年3月20日以降の投稿を参照してください。
先ず別境の心所について、第八識と相応しないことを説き明かします。
五別境とは、欲・勝解(ショウゲ)・念・定・慧の五つですが、これらは三性(善・悪・無記)に通ずる心所です。
「謂く、欲は所楽(ショギョウ)の事を希望(ケモウ)して転ず。此の識は業の任(ママ)にして希望するところ無し。」(『論』第三・四左)
所楽とは、「所楽とは、謂く欲観の境なり。但、彼(一切の事)のうえに、若しは合し、若しは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七・八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり。」(『述記」)と説かれていますように、第八識には希望がありません。第八識は任運に法爾に、ただ業に任せて転じているのです。ですから、第八識には「欲有ること無し」と云われるわけです。ここから推測しても、五別境は第六意識に於いて働く心所であることが解ります。意識がどこに向かっているのか、どこに向かうのかに大きく関わってくる心所なのです。
遍行は、私の行動がどのようにして動くのかを示していることに対して、別境は私がどこに向かって歩みを進めているのかを問うている心所になろうかと思います。それはまた、如来の欲でもあるわけです。如来の欲生心に於いて、衆生の願生心が生まれてくるわけですね。それは、第八識が無覆無記だから成り立つことなんです。
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