唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (4)

2015-10-21 21:54:19 | 初能変 第四 五受分別門
 

 私たちは、何かを願うとか、何かを欲することを以て生活の基盤としています。しかし、そのことに於いて私たちは悩んだり、苦しんだりしている。非常に矛盾するわけですが、願いとか、欲求そのものは本来、純粋なんでしょうね。ただ煩悩に覆われて不純粋にしています。願いそのものまでも不純粋ということではないと思います。願いは純粋。ここが大事な所です。何故不純粋にしてしまうのかですね。ここに如来のお仕事が有るように思います。不純粋にするのは煩悩だと、煩悩は分別意識ですね。我執です。我が身可愛いということ、自分が一番という自我意識ですね。その煩悩が意識の底深くに流れている。第八阿頼耶識の所縁である種子の中の、染汚を生み出してくる種子が現行する時、心は染汚されたものとして現行してくるのですが、現行そのものは純粋意識なんですね。純粋意識が、染汚された煩悩を縁として煩悩だと知らしめ、本来の願いに呼び覚ます働きをもってくる。
 「如来が人間に成るところに如来の願いが出てくる。それで因位、因位法蔵という。だから如来の願いということになると、如来が衆生となる。衆生の立場となって願いというものがある。人類を背負うて立つという願いになる。」と安田理深先生は教えてくださっています。煩悩を呼び覚まし見失ってしまっている道を本来のあり方に方向転換させていただく。それが如来のお仕事であるということなのでしょう。
 「親鸞聖人は“ちからなくしておわるときに、彼の土へはまいるべきなり”といわれるわけです。・・・これは命終わって浄土に生れる、そいうことではなくて、分別に死ぬということです。また分別が無くなることをいっているものでもありません。分別を当てにすることに死ぬ。分別を頼りとする立場の死、ということです。」と、高柳正裕師は教えてくださっています。
 分別を当てにするのが煩悩ですね。どこまでいっても分別を当てにするのです。そういう構造になっているのですね。その立場の死です。これが如来のお仕事なのでしょう。そのことに目覚めることを、分別を頼りとする立場の死というのでしょうね。前念命終です。同時に願生です。願に生きる生活が始まるのですね。大切なことをお教えいただきました。
 別境の定と慧について概略しますと、
 「定」といいますと、禅定という精神統一を思いますね。ある対象に向かって心を専注して乱れないということです。ここでも何をもって定というのか。それに対し「所観の境に於いて。心を専注して不散ならしむるを以って性と為し。智の依たるを以って業と為す」といわれています。観は観察・境は対象、所観の境は観察しようとする対象・それに於いて心を留める、不散ということ、散乱しないことを本質とするということです。念を受けるかたちで、定がもたらされます。定は智慧の所依となること。智慧は真理を知るはたらきですね。智慧が生まれるのには念・定の心所が大切なのです。定に於いて心が浄化されるのです。浄化ということには本来に帰るという意味が込められています。「自性清浄心」といわれ、本来は清浄心なのですが、煩悩によって覆われているのですね。私の経験したことのすべてが今を生み出している、そのすべてが煩悩によって覆われているというわけです。「覆」ということに菩提心をおこすのです。煩悩と対峙するということです。そして心を浄化するということにつながっていくのですね。煩悩という心所はまた詳しく述べてまいりますが、例えば貪欲です。自分の欲望を満足させたいがために執念を燃やすということがありますね。目標一直線に心を集中させるということなのですが、これは定とはいわないのです。定に似て非なるものです。煩悩を翻すということに於いて真実を知る智が生まれるということなのです。「智の依」というのが「定」であるということ、大事に聞いていきたい心所です。「定」は心をひとつに留めて悪を作らない、浄を妨げる貪欲・慈悲を妨げる瞋恚・因縁を妨げる愚痴の煩悩を止となす、といわれています。大乗仏教では修行の階位としての止観行が最も大事なこととされているのです。「所観の境に於いて、心を専注する」ということですね。修行することによって柔軟心を成り立たせるということがいわれるのです。自己に執着する心が翻されて柔らかな、何事にも対応できるような心に転ずるというのです。
 「慧の心所と云は、万ずの知らんと思う事の徳失をよく簡び弁えて疑を除く心なり。是則ち智なり。別境の五と申は是なり。」(慧の心所というのは、すべての知ろうと思うことが正しいか、正しくないかを選び、弁えて疑いを除く心である。)智慧の慧は聞慧・思慧・修慧といわれますように正しく聞き・思惟し修行することによって得られるものです。何が真実か不真実を選択して疑いを断ずる心なのです。その真実は清浄の業より起こり、そして仏事を荘厳するわけです。何が真実かということですが、私は答えはないと思うのです。「往生極楽の道を問う」ことが真実につながるのではないかと思います。私たちの知恵は疑心をもっているのですね。二心(ふたごころ)です。一心ではないのです。この知は愚痴の痴で病にかかっているのですね。我執と云う病です。私が一番で二番三番は無いのです。此れが私たちの知恵の本質です。「所観の境に於いて簡択(けんじゃく)するを以って性と為し。疑を断ずるを以って業と為す。」のが慧であるといわれているのです。過去のすべての経験を忘れていないというのが「念」でした。この念が定の依り処となり、その対象にむかって心を一つに集中していくのが「定」です。定が智の依り処となるのです。そしてどの方向に向いて歩みを進めているのか、善か悪かを択びわける働きが慧というわけです。これが煩悩を断じていくのであるといわれているのです。過去の経験を忘れていないということは何を意味するのかということです。その中に「生きていくことの意味」のヒントが隠されているということだと思います。過去の経験のなかを吟味して択ぶ、仏道の方向に向いているのかどうかを択ぶわけです。何故なら、私たちの目的は悔いのない生き方・空しく過ぎ行くことの無い人生・幸福な生き方を願っているわけでしょう。願いの彼岸が私たちの故郷になるわけです。故郷を持たないと帰る場所が無いわけです。故郷喪失症に陥ります。故郷を回復する運動が念・定・慧という一連の流れに成るのではないでしょうか。
 欲・勝解・念・定・慧という別境の心所は働く対象が異なるのですね。欲は所楽の境に於いて・勝解は決定の境に於いて・念は曾習の境に於いて・定・慧は所観の境に於いてというように異なる対象に於いては異なる心所が働いているわけです。ここで大事なことは欲から慧へと心の深まりがあります。はじめは漠然として欲の心所がいわれています。その欲にもいろいろあります。欲楽といい、欲望という違いもありますが、慧の心所から窺えますことは、慧は真実を知る智慧ですね。そうしますと別境の心所は仏道に向かわしめるということを主題としているということがわかります。私たちは自ずと仏道的生き方をしているわけです。そして別境はどの心に働くのかという問題になります。「第七・八識には」と、この別境は位(有漏・無漏)に随って有無があるというのです。有漏の阿頼耶識には別境は働かない・偏行だけが働きます。阿頼耶識は純粋ですから何事にも分別しないのですね。阿頼耶識が転依(大円鏡智に)しての無漏位には別境の全てが働くのです。これは願生という欲生心から無分別智まで一筋の道なのですね。第七末那識は転依(平等性智に)しての無漏位にはすべての別境は働きますが、有漏位では慧の心所だけが働くのです。何故かと言いますと末那識は我執ですから自他を簡びわけるのですね。自分の損得だけを思いつづけていますから、自分にとって損をしないように簡択(選ぶ)するわけです。その心所が慧です。仏道に方向が定まっていてもですね、最後の関門があるわけです。エゴイズムです。利己的に物事を変えていくわけですね。ここをどのようにして突破するかが仏道の課題として残るのですね。前五識は感覚器官ですが第六意識に左右されます・影響を受けますから六識には五つの心所が働くのです。この様に見ていきますと第六意識ですね。この作用がいかに大切なことかがはっきりと見えてくるわけです。欲を起こす、それはどの方向を向いているのか、優れた理解を以って確認をするわけです。方向を見極めるのです。そしてはっきりと記憶して忘れることがないのです。そして忘れることのない対象に精神を集中していく、そのことによって真実の智慧が獲得されるという流れになるわけですね。このような心の構造をしっかりと把握して聞法に励み、聞薫習することが大切な生き方ではないでしょうか。
 以上の別境の五(欲・勝解・念・定・慧)は第八識と相応しないということなのですが、その理由がですが、欲・勝解・念につきましては説明しましたので今日は定と慧について説明をします。
 先ず、定が第八識と相応しない理由です。
 「定は能く心をして一境に専注(センシュ)なら令む。此の識は任運にして刹那に別縁す。」(『論』第三・四左)
 この第八識は業に任せて任運に転じているので、定まった心ではないのですね、かといって散心でもありません。任運とは業に随って転ずることをいいますが、意志を用いないで自然に法爾に、縁に随って転じている、業縁存在と云われる所以です。
 『述記』には「定の行相は一々の刹那に深く取って専注して所縁に趣向す。此の識は浮疎にして行相爾らず、故に定と倶なるに非ず。」と。
 次に、慧が第八識と相応しない理由ですが、
 「慧は唯だ徳等の事を簡擇(ケンチャク)して転ず。此の識は微昧(ミマイ)にして簡擇すること能わず。」(『論』第三・四左) 
 「徳」はサンスクリット語ではグナguṇa。性質・特性・固有性と訳されます。また功徳とも訳されます。ものそのものの性質・特性・固有性を簡び分けるのが慧の心所です。この第八識は働きが弱い(微昧)ですから、簡び分けるということをしません。
 「故に此れは別境と相応せず。(『論』第三・五右)
 以上のような理由をもって、五別境の心所いずれとも相応しないのです。五別境と相応しないというところに、すごく深い意味があるように思います。これは無覆無記と関係してくるところなのでしょうが、私たちの心は業縁のままに分別を起こさない、分別を頼りとしないことを以て本質としているということなのでしょう。だから私たちは変わることができる。本来変わることの必要のない私に出遇うことが出来るのでしょう。

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