唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(51) 別境・五受分別門

2013-04-19 21:13:24 | 心の構造について

  - 審決等の四も苦と倶であることを述べる -

 審決(しんけつ) - 対象が何であるかをはっきりと認知すること。決定的に知ること。勝解の心所の定義でいわれる。

 「苦根を既に意識とも相応すること有りと云ひて、審決の四も苦と倶なりというに、何の咎かあらん」(『論』第五・三十五右)

  「述して曰く。前に已に苦根は意に在りと説きつるが如し。故に後の余の四も亦相応することを得。此れは他宗に就いて設として、五識には、欲等なしと説くが故に、苦根ありという義を説くなり」(『述記』第六本上・二十八右)

(「論。苦根既有至苦倶何咎 述曰。如前已説苦根在意。故後餘四亦得相應。此就他宗設説五識無欲等。故説自意識有苦根義」)

 苦根は、すでに意識とも相応するものであると述べた。従って審決等の四も第六意識と相応するすることに、何の問題(過失)があろうか、あろうはずがない、と。

 

 此れは正義を説く 

 ー 正義に就いて五識に五別境有るに約する也 ー 

 「又、五識と倶なるにも亦微細の印境等の四つ有る義は、前に説けるが如し」(『論』第五・三十五右)

 (此の説は正義なり)と。新導本の傍注にも(此れは正義を説く)と記されています。護法の正義については上来述べてきているのですが、ここで新たに、「此れは正義なり」といわれる理由は何でありましょうか。五識に五別境があるということが、第一師の説に対しての護法の正義を述べるものではなく、五識に五別境は並存するということが、護法の正義なのです。 

 「述して曰く。此の説は正義なり。五識にも並びに有ると。已に欲は憂苦と相応すと説くが故に。唯、四は苦等と倶なりと説く。並に前に説けるが如し。微細の解等あり。五受と相応す」(『述記』第六本上・二十八左)

 (「論。又五識倶至義如前説 述曰。此説正義。五識並有。已説欲與憂・苦相應。故但説四與苦等倶。並如前説。有微細解等。五受相應 。」)

 また、五識と五別境とは倶であることや、また、五識にも微細に印境する等の四つの別境の心所があることは、すでに説いた通りである。(欲を除いた他の四つ) 五識には、苦・楽・捨の三受相応といわれていますが、五識は第六意識の影響を受けるという視点から、五識にも五受があるという。 

 「斯に由って欲等は五受と相応す」(『論』第五・三十五右)

 「述して曰く。政(私に云く。政は正と相通ず)義を結す」(『述記』第六本上・二十八左)

 (「論。由斯欲等五受相應 述曰。結政義也。此論上文逐難分別。」) 

 このような理由に由って欲等の五は五受と相応することがわかるのである。

 

     第三能変 別境  ー 余門を例す ー

 「自下は第六に三性・第七に三界・第八に三学・第九に三断・第十に漏無漏と・第十一に報非報との等の諸門分別す」(『述記』第六本上・二十八左)

 (「自下第六三性。第七三界。第八三學。第九三斷。第十漏・無漏。第十一報・非報等諸門分別。」)

 
 『成唯識論』巻第五・別境の結びに、余門を例すとして、諸門分別が述べられます。

 「此の五を復、性と界と学との等きに依って諸門分別すること、理の如く思うべし」(『論』第五・三十五右) 

 『成唯識論巻第五』
 此の五(別境の心所である、欲・勝解・念・定・慧)をまた、性と界と学と断と漏無漏と報非報との等分別することは、理の通り思うべきである。
 別境について、五門に分けて説明がされていました。
1. 列名釈義門
2. 遮遍行門
3. 独並門
4. 八識分別門
5. 五受分別門
 これを以って別境の説明が終わり、巻第五は終わるわけです。その最後に、本来なら述べられなくてはならない第六門から第十一門などの諸門からの説明も、以上の五門と同じく、その理に由って考えるべきである、「理の如く思うべし」であるとして、諸門の説明は略しているのです。

 「述して曰く。自に任せて思を取るに、然も五数と煩悩・随煩悩と相応すること、有漏の善心と、或いは倶・不倶等ということ、下に自ら知るべし。煩悩等の中には欣と慼との行別なるを以ての故に。善の中には加行と生得との世と無為とを縁ずること別なるが故に。相応せざるに非ず。前の遍行の五は有心には必ず有り。明らかに一切に通じて皆遮すること無きが故に。但だ欲等に於て諸門分別す(『述記』第六本上・二十九右) 
  •  欣と慼(ごん・しゃく) - 欣は楽受と相応する、よろこぶ心。慼は苦受と相応する、うれう心。
  •  加行と生得 (けぎょう・しょうとく) 生得とは、生まれると同時に先天的に獲得されるもので、加行の対。加行は修行・努力・実践によってもたらされるものです。「三界の善心は、各々、加行得と生得との二種に分かつ」といわれています。生得慧(有漏智の一つで、生まれながらにして獲得されている智慧)・生得善(先天的に獲得される善)・生得智と云われ、後天的な加行に依って獲得される加行慧・加行善・加行智の対になる。修行の階位として第二段の位になる。第一段は資糧位で無上菩提に至るためのたくわえを集積する段階。その段階からさらに修行を深めていく段階が加行位です。世第一法ともいいます。世第一法は欲界の苦諦の理を縁じる段階。世間の汚れである存在(有漏法)のなかで最勝であるので、世第一法という。真理をさとる以前の修行の位で、そこで身につく慧を加行慧という 

              『成唯識論述記巻第六本上』 終
           導本奥書には
              顕慶四年十一月二十五日於玉華粛誠殿三蔵法師玄奘奉 詔譯 
                      飜経沙門基筆受
模写明詮僧都之導本  安和元年十月十六日点此巻畢
 興福寺沙門真興と記されています。尚、この記載については若干の問題があると指摘されていますが、唯識を学ぶ上では支障があるわけではありませんので、省略します。歴史的な勉学しようと思われる方は、深浦正文著 『唯識学研究 下』(永田文昌堂発行)・富貴原章信著 『日本唯識思想史』(大雅堂発行)を紐解いてください。
 次回からは『成唯識論』巻第六に入ります。

 

 

 


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