『倶舎論』、久しぶりの更新です。
十八界の分類的考察 第四十二頌
一眼で見るか、二眼で見るかの問題(前半)
「或二眼倶時 見色分明故」
(「或は二眼倶時なり、色を見ること分明なるが故なり。」)
二眼見の方が色法を正しく見る、一眼見では明確ではない、ということを明らかにしています。
後半は、根が境に接触するか否か(至境不至境)の問題。
「眼耳意根境 不至三相違」
(「眼と耳と意との根が境は不至なり、三は相違す。」)
不至 - 六根の中の、眼と耳と意の三つの根の境は離れている。根が距離を置いて認識する対象(境)をいう。
それに対して、至境とは、鼻根、舌根、身根の三つの根と境は距離を置かない。直接に認識されるものである。
第四十三頌
前半は、根と境の量の問題(等量境不等量境を説く)。
「応知鼻等三 唯取等量境」
(「応に知るべし、鼻等の三は、唯等量の境を取る」)
鼻等の三根(鼻根・舌根・身根)は至境を認識するから、これは等量境を認識するのである。根と境が等量であるということ。それに反して、眼・耳の二根は、有る時は小量を認識し、有る時は等量を認識し、有る時には大量を認識でするから、不定である。意は質礙のないものであるから、その量を定められない、という。
後半は、意識の依り所は直前の瞬間に過去した意であり、前五識の依り所は現在の根であることを述べる。)
「後依唯過去 五識依或倶」
(「後の依は唯過去なり、五識の依は或は倶なり」)
六識の所依を説いています。
第六意識は過去の意根に依る。
前五識の所依は現在倶生の五根であるけれども、また、意根にも依る。所依が二種あるので倶という。
倶は、四句分別を以て答えている。
四句分別とは、二つの概念、有と無と云う場合、有(有る)、無(無い)、有亦無か(有り且つ無)、非有非無(有るのでもなく、無いのでもない)というように、二つの概念をもって物事を四つにわけて判断する方法。
一に、眼識の所依であって眼識の等無間縁でないものを倶生の眼根という。
二に、眼識の等無間縁であって眼識の所依でないものを無間滅の心所という。
三に、眼識の所依であって、また眼識の等無間縁であるものを過去の意根という。
四に、眼識の所依でもなく、また眼識の等無間縁でもないものを、その他を非有非無という。耳識・鼻識・舌識・身識も同様である。
意識の所依は定んで意識の等無間縁である。しかし、意識の等無間縁は必ずしも意識の所依ではなく、無間滅の心所である。
これが『倶舎論』で説かれる、六識の所依の問題の答えです。この説は大乗に至って問題視され、意根の所依は第七末那識であることが明らかにされます。
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