下は第二段 慚と愧について合わせて説明する。
初に別解・後に総解
「云何なるをか、慚と為す、自の法との力に依って賢と善とを崇重(すうじゅう)するを以て性と為し、無慚を対治し悪行を止息すを以て業と為す。」(『論』第六・二左)
崇重(すうじゅう)とは、賢人と善とを尊び重んじることをいい、慚のありかたを指す。『顕揚論』巻第一に「自の増上と法の増上とに依って、過悪を羞恥すといえり」と述べられているように、慚とは、自の増上と法の増上とに依って賢と善を崇重することを本質的な性(働き)とする。そのことに於いて無慚を対治し、悪行を止息させ、過悪を恥じることが起こってくるのを業とする心所である、と説かれています。
慚・愧という心所は、親鸞聖人も大切にされている善の心所ですが、親鸞聖人は慚愧をどのように解釈されているのでしょうか。
『安心決定鈔』(真聖p944)に「慚愧の二字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。なにごとをおおきにはずべしというぞというに、弥陀は兆載永劫のあいだ無善の凡夫にかわりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世にいでて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。機より成ずる大小乗の行ならば、法はたえなれども、機がおよばねばちからなし、ということもありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆずりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべしというなり。「三千大千世界に芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまわぬところはなし」(法華経)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かわりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまいしなり。この広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしというなり。このこころをあらわさんとて、「種々の方便をもって、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)と釈せり。
と、述べておいでになります。
『成唯識論』の解釈では、慚とは、「自と法との力によって賢と善(賢者と善法)とを崇敬し重んじること」と説明しています。「恥じる心」は賢・善とを崇敬し重んじるところから生じるのである。慚の別相は、「賢の徳のある人の、若しは凡、若しは聖において、崇敬を清じ、一切の有漏無漏の善法において、崇重を生ず」といわれています。
「過悪を羞恥す」(過失や悪を恥じること)は、慚・愧に通ずる働きなのですね。通相といいます。通相であって、慚・愧の自相ではないということです。そこで慚・愧の自相は「かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。・・・謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべし。・・・広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしという・・・」
この「恥じる心」は如来の恩徳を崇重することにおいて、「いままできかざることを」慚愧する心をいただけるのですね。
『顕揚論』の主旨は「自の増上」とは、自の善心を増上縁とする、「法の増上」とは、教法を増上縁とする。このことに依って「過悪を羞恥す」ることができるといわれています。自の増上縁と法の増上縁とに依ってということです。
そして、「慚」は「悪行を止息する」ための所依となり、過悪は転じられるのである、と。 (つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます