唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (9)

2012-04-22 17:18:23 | 『感の教学』 安田理深述

 宿業を運命的と考え、本能を盲目的と考える理性能力の否定である。否定されるのは自由を自負するところの理性である。自負は自我の固執に他ならない。主観の自由をもってどうすることも出来ない、というところに理性は現実というものに初めて触れるのである。

 理性にとって現実存在は不可知の壁であるのだが、しかしそれは絶望的結論というようなものではない、絶望的結論も一つの理知の判断であり、運命観的なる一つの解釈に他ならない。むしろそれはわれわれの生の方向を変革する一つの転機を与えるものである。思い上がった自由という思いが思い知らされることは、そこにそれを転機として思いのままにならぬ存在の深みに目ざめる自覚を開くという意義をもつのである。生の深みの内面に眼を開いてくる転回点という意義をもつのである。宿業を運命の偶然と思い、また本能を盲目的衝動と思うことそれ自身、理性を自我として固執する固執の主観的解釈であり、固執の影である。理性は自己の影によって自己の無能を知らされるという、自己矛盾に帰着せざるを得ぬ。理性は宿業本能にぶつかって、自らの妄想であることを承認せしめられるのである。かく理性が否定されるならば、従ってまた絶望的な宿業も盲目的な本能も同時に否定されて。そこに思いを突破した現実に目ざめるのである。宿業本能には、理性によって自己の脚下を忘れていたところの人間が、その現実の大地に帰らしめられるという重要な意義があるのである。本能の世界こそ思いならぬ人間の現実の大地であり、立脚地である。そこに身体をもち、また環境をもって生きているところの実存の大地がある。現実の大地は大地という観念ではなくして、一つの感覚である。即ちこれが凡夫的人間の自覚である。理性の自由をもって生きていると考えるところには凡夫はいない。宿業の因縁によって生きているのが凡夫という存在者のありかたである。その時その時の業縁によって、思い設けぬそれぞれの出来事に出会って生きているのである。世界の一点一点も思いで決めることの出来ない、論理的厳密性よりも厳密な存在の秩序に生かされているのが、凡夫的人間というものである。それは論理的厳密であるよりも実存的厳粛性である。宿業の自覚はこういうわけで、理知の立場を回転して理知よりも深く、理知よりも根本的な感覚の機能を回復せしめられ、また回復したことである。理性の固執によって閉ざされていた感覚の根本能力、一切衆生に本より廻向され賦与されていたところの、本質の機能の回復ということだと思います。

 さきにいった如く業道自然の自然というところに、意志をもってはどうすることも出来ぬという、意志を破った現実というものの感覚があるということが重要なことである。感覚にのみ現行の事実があるのである。それはいかに業道であっても、所謂依他起自性なる事実であって主観を破ったものである。これに反して理性の意志するところは、むしろ所謂遍計所執性の妄想に他ならない。感覚に於てわれわれは始めて現行の事実たる現実というものに触れるのである。自然は必然である、絶対的必然が宿業の自然である。しかも同時にこの絶対必然に於て、その宿業の内面にそれを貫いて流れている宿業の魂に触れるのである。宿業の内に宿業を超え、宿業を荷負しているところの願心に目ざめるのである。逆説的であるが、この荷負というところに絶対自由があるのである。宿業に反抗し宿業を拒否するところの理性に自由があるのでなく、逆に宿業の必然に随順し、必然に帰するところに、法爾自然なる絶対の自由があるのである。自然は必然であるが、そこにまた自然の自由があるのである。この法爾自然なる自由は、宿業からの自由であるよりも、宿業への自由として下降的意志の自由である。悲願的意志である。悲願は宿業をもって自身の内面的契機として、宿業に苦悩する衆生に呼びかけ、この呼びかけによって衆生は宿業の内面に流れる、この純粋なる祈りともいうべき悲願的意志の心に目ざめるのである。宿業の内面に触れて初めて真の意味の宿業の自覚ということが出来る。この宿業の自覚は、宿業の内面たる願心の呼びかけそのものである。呼びかけが目覚めである、めざめをたまわるのである。呼びかけとして衆生は自己をもったのである。宿業に荷負するところの自己をもったのである。宿業に動かされて生きていたことの超越的意味が初めて自覚されたのである。宿業に動かされるということは、理知よりも深い根底からの招喚であったのである。この自覚によって、宿業の必然によって苦悩せしめられていた衆生は、苦悩する理性的意志の固執を破られ、その理知の苦悩から解かれ、却って明るく宿業に順ずることの出来る衆生となったのである。本能に苦悩せしめられるのは理知であって、理知がその妄想に目ざめれば、本能は光をもつものである。それはどこ迄も宿業の内面に等流する悲願の意志の呼びかけに触れてのことである。宿業の内に流れているということの意味に於て、悲願はどこまでも内在的であるが、他面どこまでも宿業の雑染を超えて自性清浄である。即ち超越的なるその法爾自然の本質を失わぬのである。この二面の意義から悲願は超越的にして内在的、内在的にして超越的である。或は二重の超越といってよいかと思う、宿業からの超越と、宿業への超越である。前者の意義に於てこの清浄意欲は法爾意志である。また後者の意義に於てこの清浄意欲は下降意志である。下降意志として悲願というのであるが、しかしその悲しみと痛みは、人間的な感傷であるのでなく、むしろ人間を超えた意味の悲痛は却って無心というべきである。悲痛といっても平等一味ということの他にないのである。このような意義から純粋清浄なる意欲たる願は、法爾自然の法性と業道自然の衆生とを総合統一するところの、具体的実存であるということが出来る。最も具体的なる実在は意欲である。意欲こそ主体的実在である、われ意欲す、故にわれ存在す、の自覚的実在である。これがわれよりも近きわれである。如来という存在の意味がここに成立するといえる。  (つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿