唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (11) 最終回

2012-05-06 00:24:02 | 『感の教学』 安田理深述

 「外から理論や知識を輸入してくるのではなく、与えられているものを見直してくるのである。われわれの課題はこれだけである。機と法と、感と応というのであるが、二つの課題があるのではなく、ただ感覚の機能を純化する一つの道である。自己の感覚を純化すれば一切の法はそこに応答してくるのである。このことのために、いろいろのことをくどくどしく述べてきましたが、曽我先生の教の意義の反省に帰らねばなりません。

 昨冬京都の相応学舎の報恩講は、先生を追憶する鸞音忌ということにしてつとめました。その際、若い学生の方々をはじめ皆に感想を語って頂きましたが、そこに共通して述べられたことは、先生のお言葉はよく理解出来ない、しかしそこにあるたしかな存在からは深い感動をうけた、ということであったかと思います。私はそこに今日述べましたところの感の教学というものが語られたのであると思うのです。理知的にはよく理解出来ない、或は全く理解出来ない。しかし感知という意義に於てはやはり知られたのである。

 先生の教学にもし前期、後期というようなことが言い得るとすると、前期は自覚自証ということが出来るかも知れません。救済と自証という書の題目がよくこれを語っていると思います。これに対して後期に於ては、感覚感情ということが特徴かと思うのですが、どんなものでしょう。勿論後期になって自覚の教学がなくなったのではない、自覚の教学ということは一貫しているのである。法蔵菩薩とか阿頼耶識とかいうことがくり返し述べられていますが、つまり神話的な法蔵菩薩を自覚的にみてくるということかと思います。欲生ということが非神話化を通して解明され、阿弥陀仏の救済というものを、欲生の自覚によって証明するという思想的事業であったかと考えられます。これは晩年まで一貫しているのでありますが、後期になると宿業とか本能とかいう問題が情熱的にとりあげられています。

 これがつまり感覚ということになるのではないかと思うのです。理知を否定して本能の感覚的能力というものを、明らかにして下されてあります。これによって自覚というものが、知的自覚というよりも感覚的自覚として明らかにされてきたということが出来ましょう。なおそれにつづいて感応道交というような意義が、本能から明らかにされてきています。感応といえば既に神通の世界ともいうべきものであって、先生の教学の円熟された境地でないかと思われます。欲生という概念がすでに感覚的自覚の原理の如き忌みをもっています。感性的な概念であります。

 先生のお言葉がよくわからぬということは、若い学生の方々のことではない。年をとればわかってくるというものではない。年を取れば却って感の能力が衰えるともいい得る。先生は出来上がったものには厳しい批判を加えられてことですが、しかし若い学生を非常に敬愛された、感覚の若々しさに対する敬愛でなかったかと思います。また厳しい批判も理知化・固定化への批判ではないかと思います。先生の教学といったものを、あれこれ論ずることは実は私の欲するところではありません。

 先生の教えられた思想内容を語るのでなく、その態度に教えられるものがある、それを明らかにしたいのであります。先生が感覚や本能という思想を語られたというより、先生の思索の道は本能的であったと思うのです。またその思惟そのものが対象的思惟ではなくして情熱的・欲願的であったと思います。宿業に苦悩する人間として、本能的に飽くことなく、執拗に思索された先生であった。ものがちがうのは本能や宿業の教理についての教学であるのでなくして、宿業の苦悩にあえぎながら、本能となって思惟された、そこに法蔵魂が生きている、この生きた思惟の現存が圧するが如き権威をもって迫るのであると思います。先生は徹底的に理知を批判されたのでありますが、これも先生にとって自己批判であった。先生の思惟の態度は理知との苦闘であった。先生にとっては自己の問題以外に何もなかったのである。一切は自己の問題であったと思うのであります。           (完)


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