唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (5)

2012-03-25 19:41:08 | 『感の教学』 安田理深述

 衆生が疑を除いて信を獲るのでなくして、信心そのものが衆生の疑を除き証を獲しめるところの真理である。体験ではなくして真理であるのである。真理というのがむしろ純粋の事実である。衆生がいかに煩悩熾盛であり罪悪深重であっても、如来内存在である根本的な秩序を動かすを得ぬという確信であると思う。仏を仏性というのでなく、衆生そのものを仏性という存在論的な自覚があるのではないか、かく親鸞は涅槃経の経文を日本語の文法に従って国語としてよまれたのだが、漢語では発音通り悉有仏性、一切衆生ことごとく仏性あり、というよりことごとくあるのが仏性、「悉有は仏性なり」非常に鋭い受取り方である。諸法実相は諸法の実相でなくして、諸法即ち実相である、といった趣きであります。何か仏性というものは何所か誰かにある存在物だと思っておるのは、それは実体化された仏性である。それは法性ではなくして思弁である。形而上学である。悉有は仏性とはこの思弁を破っているのである。悉有の有といい、有時の有というのは今日哲学で問題となっているところの、存在論的存在というべきものかと思います。あらゆる存在を存在たらしめている存在そのもの、が哲学の問題となっている。いま悉有というのは別な表現では本有である。あらゆる存在だから悉有であるが、その存在を存在たらしめるが故に本有である。もとよりある。そのあるは無いに対してあるのでもないし、またないのでもない。有無を離れて端的にただある、ただそれのみがある。存在としての存在というようなことは、我々と無縁な学問上のことのようでもありますが、実は存在するものにとって存在が問われるということは、我々と無関係な問題ではなく、現実の自己の立っておる地盤が揺るぎ出してきたということである。自己の存在が問題になるということは、自己にとって最も現実的且つ根本的の問題である。宗教問題もここから考え直してこなくてはならぬ。

 自己とは何ぞや、問うまではわかったように思うていても、更めて問うと一番わからぬのが存在であるということが判ってくる。私はある存在者といっても人間である、男性である、といってもそれは幾らでもある、特に私に限るわけではない。どれだけ私という存在概念の内包を限定してみても、一あって二なき私は出て来ない。そうなると私は人間の一例に過ぎぬ、代用可能であるから一号二号という風に記号的な存在、取りかえることが出来る存在ということになる。しかし私の代りに死んでくれるといえるかというとそれは出来ない、死もやはり私の死を死ぬるのでなければならぬ。探すのは自分の外に自分を探すのではない、内観の方向に探求の方向を転ぜねばならぬ、根元に帰ることは同時に根元それ自らを語らしめることである。探されるものは向うの方から名乗っておる、近くをみよ、外に探してゆけばわからぬようになる。それは逆に却って遠ざかる方向である。本来の自己は探す以前にわれここに在りと名乗っている。方向のあやまりを自覚すれば、存在は既にあるものとして来ている。善導は既にこの道あり、必ず度るべしという、既有という、既にあるもの即ち道である。道は探す自己よりも近く既にある。道を忘れた思いが思い知らされて本のところに呼び返されるのである。新しい出発点はこういう根元的なものに帰るところにある、内観は根元へと出発するのである。

 話が少し抽象的になりますが、今日哲学で存在というような問題になると遠くアリストテレスに帰って考えてゆく、アリストテレスは哲学の古仏である。そこまで遡って明らかにしなければならぬ。つまり源を尋ねて出直すのである、遡ることが出来るというところに古典というものがある意味がある。それは現在に行詰ると既有の過去に聞く、帰って聞くところが古典である。古典は古仏の言葉である。教典である。現在に行詰るということは問題をもつことである。問題なくして古典に帰るといっても、古典は何も答えないが、古典のないところにはないのである。過去に帰るのは根元に帰るのは根元に呼び戻されるのであるが、根元が単に隠れた存在でなく、歴史となって根元を道として証明しておるのが古典である。教典である。ここに個人を超えたトラジションというものの深い意味がある。単なるオピニオン(主張)を超えた意味がある。先にいったアウトリテート(権威)というものがここにある。アウトリテートは歴史のそれである。存在が既有の歴史となっているところに、否定すべからざる威力というものがあるのである。歴史は人間の地盤を離れないが、それは存在の真理が人間を破り、人間に於て自己を開示しているところにある。その人は単なる人に非ずして無等等なる唯仏与仏である。アウトリテートをもつ歴史は唯仏与仏の歴史である。私がほんものだといい、ものがちがうという所以である。先生がほんものだというのは、先生がほんものに触れたということ、自己を破って存在の名乗りを聞かれたということである。先生のお言葉には歴史から生まれて歴史を創るという意義がある。教典を聞思されて、また教典となる意味があると思うのです。道元禅師も何か重要なことを語られる場合は、仏仏祖祖を持ち出される、非常に厳粛な態度がある。それはどこまでも禅師の言葉であるが、しかも禅師を超えているものがある。空手還郷、所以一毫無仏法(空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無し・『永平広録』巻一)という逆説的表現がそれを語っている。そういうところに道元禅師の前にも禅師はなく、後にも禅師はない、曹洞禅は道元禅師に始まって道元禅師に終わったという感銘を禁じ得ない。  (つづく)


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