唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (7)

2012-04-08 22:46:03 | 『感の教学』 安田理深述

Zou_2   今日は、お釈迦様のお誕生日ですね。花まつり、潅仏会といわれ多くの寺院で誕生仏に甘茶をかけて、有情の生まれた意義を明らかにされた仏陀を祝っています。親鸞聖人は「釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」と讃嘆されておられます。

 「真如といわれるように感知されたものがまことのものである。考えたものは虚仮のものである。感知せられるものが真実である、実在である、というのが実は意識の世界というものである。感覚の作用も感情の作用も根本的には意識の作用である。意識作用を具体化しているのである。意識の世界に於ては作用が実在である。純粋感情といえば無形の感情であります。法性たる真如は無形無相であるといわれる。考えてみようがない、考えることを禁ずるという意味で空性といわれているのでありますが、考えるのでないといっても何もないというのではない、ないと決めるのも一つの考えである。考えられぬものは一層深い意識の自覚である。それを内観の事実としてみれば、無形無相の意識は純なる感情ではないか、それは何かあるものとして意識の背後に考えるならば虚妄なる実体である。この実体の考えを破って、純粋感情を具体化するところに象徴の世界というものがある。これが法性の形相としての諸法というものである。無形無相の形相であるからして、形相のままが無形無相である。象徴は法性の無限の意味を表現しているものとして荘厳といわれる。それが法性を具体化する唯一無二の方法であるという意義から、方便法身といわれるわけであります。内面的なる反省の世界にあっては、意味がはたらくのである。荘厳という大いなるはたらきの世界である。考えによって実体化された世界は外面的な世界、固定化された死んだ世界である。こういうような荘厳世界は、有形有相であるという意義で感覚ということが出来るでありましょう。しかしその有形有相は無形無相の象徴であるが故にそのまま無形無相である。この意義でその感覚は純粋である。純なる感情感覚の世界というものが、深広無涯底といわれるのではないか、内なる世界この無涯無底である。外なる世界はいかにその理性的価値がかがやかしくみえても有限狭少である。それだけのものか、といえる世界ではないかと思うのです。価値は比較があり得るのですが、象徴される意味は比較を絶しているのです。一一が無等にして平等なる、真に無限に深く無限に豊かなる世界ということが出来る。こういうわけで私は意味を価値概念から区別するのであります。価値の世界は論理的・倫理的、一言にしていえば理性的ですが、意味の世界は存在の世界であります。凡夫という人間のありかたは一般的には、理性的価値の欠除態として、つまりただびととして劣等視されているのですが、凡人でも悪人でもとにかく生きているのです。存在しているのです。しかも現実に存在しているのです。然る限りそこには存在している限りの意味がなければならぬ、それがなければ存在しないのと区別がないことになる。

 この意味の発見によって、生きる験(しる)しありの悔なき生を自覚することが出来るわけであります。凡夫というのはこの意味の発見によって自覚、即ちひとつの悟りを有つ、自覚として生きるという、自覚ということが存在の仕方となるところの存在者となるのであります。」 (つづく)


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