唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (24) 三受について 第四門

2013-01-04 15:58:22 | 心の構造について

 「論。又瑜伽説至傍生亦爾 述曰。五十七説。問生那落迦成就幾根。答八現・種皆成。除三所餘或成・不成。三約現行不成。種子或成謂般涅槃法。或不成無涅槃法。餘三現行故不成就。種子故成就。一向苦處鬼・畜亦爾。若雜・受・處後三種・現亦成就。現・種倶成八者。五根・意・命爲七。三無漏現定不成。種或成不成。有性・無性別故。三定成種。現不成中。喜・樂定不成現。其信等五・男女二根。或現不成。斷善・不斷善。有一・二形別故 前師意。以憂根爲第八定成。苦根入・不定中。捨根入三現行不成種定成中。以客捨受彼定無故。此師以捨根入第八。七・八識相應故。苦根入現不定中。3以彼苦根受生・命終等。有成・不成時。以憂根入三現不成中。種必4有故。是故證此地獄餘三。現行不成種定成就。故知意有苦。鬼・畜一分亦爾。」(『述記』第五末・八十九右。大正43・425a~b) 

 (「述して曰く。五十七に説く。
 問、那落迦に生ずるとき、幾ばくの根をか成就するや。
 答、八(五根・命根・意根・捨根)は現も種も皆な成ぜり。三(三無漏根)を除いて所余は或は成じ成ぜず。三は現行に約せば成ぜず。種子に於ては或は成ぜりとは、謂く般涅槃法なり。或は成ぜずとは、無涅槃法なり。余の三(喜根・楽根・憂根)は現行の故に成就せず、種子の故に成就せり。一向の苦処の鬼と畜も亦爾なり。若し雑受処ならば、後の三は種も現も亦成就す。
 現も種も倶に成ずる八とは五根と意と命とを七と為す。三の無漏は現は定んで成ぜず。種は或は成・不成有り。有性と無性と別なるが故に。三(憂・喜・楽)は定んで種を成じて現を成ぜざる中に、喜と楽とは定んで現を成ぜず。其の信等の五と男・女二根とを或は現は成ぜず。断善・不断善有り、有は一と二との形別なる故に。
 前師の意は憂根を以て第八として定んで成と為り、苦根を不定の中に入れたり、捨根をば、三は現行は成ぜず種は定んで成ずというが中に入れたり。客(六識相応)の捨受は彼(地獄)に定んで無きを以ての故にと云う。
 此の師は捨根を以て第八に入れたり。七・八識とも相応するが故に、苦根を現不定の中に入れたり。彼の苦根は受生し命終するが、等しきに成じ成ぜざる時有るを以てなり(悶絶を等う)憂根を以て三は現不成の中に入る。種は必ずあるが故に。是の故に此の地獄に余の三(楽・喜・憂)は現行は成ぜず、種は定んで成就すと証す。
 故に知る、意に苦有りと云うことを。鬼畜の一分も亦爾なり。)

 地獄には、楽受・喜受・憂受は現行しないということを、詳細に検討していることになります。純受と雑受とに分けて説明しています。
 前師とは安慧を指しますが、安慧は「余の三」を、喜受・楽受・捨受とし、地獄には憂受は存在すると主張します。しかし護法はこの説を論破していきます。次章で述べられるのは、安慧の説である地獄にも憂受は存在するという異説との議論がなされます。


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