唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (25) 三受について 第四門

2013-01-05 16:05:38 | 心の構造について

 『瑜伽論』巻五十七からの引証です。『論』の文は取意になりますが、
 『瑜伽論』巻五十七本文には「那落迦に生ずるは幾根を成就するや。答、八なり、現行種子をば皆な成就することを得。三を除ける。所余をば或いは成就し、成就せず。三無漏根は現行に約すれば成就せず、種子に約すれば或いは成就す、謂く般涅槃法なり、或いは成就せず、謂く不般涅槃法なり。余の三は現行の故に成就せず、種子の故に成就す。那落迦趣に生ずるが如きは一向に於いてす、若しは傍生餓鬼もまさにしるべし、亦爾なりと。若しくは苦楽雑受の処には、後の三種も亦現行し成就す。問ふ、若し人趣に生ずれば幾根を成就するや。答ふ、一切あるべし。人中に生ずるが如く天に生ずるも亦爾なり」(大正30・615)と記述されています。

 「余の三と云うは、定めて是れ楽と喜と憂との根を彼こに必ず現行の捨を成ぜるを以ての故に。」(『論』第五・二十四右)
 

 余の三とは、楽・喜・憂の三根で、所余は信等五根(信・精進・念・定・慧)をあらわします。地獄と純受の一分がある餓鬼界と畜生界には憂・喜・楽の三受は現行しない、ということになります。これが護法の理解ですが、第一師(安慧の説とされる)は地獄にも憂受は存在すると主張しているのです。この異説についての議論が述べられます。立理といい、これが四つの部分より成り立っています。

 「論。餘三定是至現行捨故 述曰。三立理有四。一申難。二反詰。三更徴。四總結。此初也 餘三。定是憂・喜等。所以者何。以彼定有七・八二識相續不斷。定成現捨受。又非無苦故。」(『述記』第五末・九十右。大正43・425b) 

 (「述して曰く。三に理を立つるに四有り。一に難を申べ、二に反詰し、三に更に徴し、四は総じて結す。此れは初めなり。余の三とは、定んで是れ憂と喜との等となり。所以はいかん、彼には定んで七・八二の識有って相続して断ぜずして、定んで現の捨受を成ずるを以て又苦無きにあらざるが故に。」)

 申難は護法が自らの主張を述べ、反詰は安慧が反論し、更徴は護法が更に安慧の説を論破するということ。
 

 
 
先の『瑜伽論』にいう余の三というのは、楽と喜と憂との根のことである。どうしてこのように言えるのかと言うと、彼(地獄・純苦処)には現行の捨は成り立つからである。根とは受のことになりますから、楽受・喜受・憂受の三は地獄では現行しないということになり、これが護法の論拠になります。安慧の主張は「余の三」は喜受・楽受・捨受ということになり、地獄には憂受が存在することになり、護法と安慧の解釈が対立することになるのですね。
 安慧の立場は、六識に約して論じられているのですが、本科段の護法は八識に約して論じているのです。

 「豈に客の捨彼こには定んで成ぜざるにはあらずや。」(『論』第五・二十四右)

 (どうして、客の捨受が、彼こ(地獄・純苦処)では、成立することがあろうか。)

 安慧の主張は、六識に約して論じられているので、捨受が、地獄や純苦処では存在しないといい、『瑜伽論』記述も、六識に約して論じられていると主張します、このことにより「余の三」には喜・楽・捨を入れるべきであるとし、護法の説とは対立するのですね。安慧は地獄には憂受は存在するとし、護法は憂受は存在せず、苦受のみが存在すると主張しているのですが、この相違は六識に約す立場と、八識に約す立場の相違になります。

 「寧ぞ知る彼の文は唯客の受のみを説けりということを」(『論』第五・二十四右

 (どうして、知り得るのであろうか、『瑜伽論』の文は、「ただ客の受のみが、説かれているということが。)

 護法は、安慧に対して、「どうして、地獄などで成立しないという、「余の三」の文に、捨受が入るとわかるのか、地獄には捨受は成立しないのであるから、という問いかけですね。

 「論。寧知彼文唯説客受 述曰。三更徴有三。一乘前徴。二別生徴。三擧例徴。下初也。後師返問。所説捨受現定不成。汝依何道理知是*客受 前師云。五十一説地獄全・一分鬼・畜名一向苦。不苦6樂受爲純苦。映奪略而不論。是故知者。」(『述記』第五末・九十左。大正43・425b)

 (「述して曰く。三に更に徴するに三あり。一に前に乗じて徴し、二に別して徴を生じ、三に例を挙げて徴す。下は初めなり。後師(護法)返って問うなり。所説の捨受は現は定んで成ぜずという。汝何の道理に依ってか是れ客受なりということを知る。前師の云く、五十一に地獄の全と一分の鬼と畜とを説いて一向苦と名づく。不苦楽受は純苦の為に映奪するを以て略して(第八の主捨)を論ぜず。是の故に知ると、」)

 『演秘』の記述は「疏に「為純苦映等」とは、彼の論(『瑜伽論』)を按ずるに、若し那落迦等の中にては、他(客受即苦受)に映奪せられる不苦不楽受と純苦と雑じり受けて倶時にして転ずること無し。当に知るべし。此の受(捨受)は映奪せらるるが故に了知すべきこと難し。那落迦等の中にて一向に苦受と倶転するが如くなりと云えり。釈して曰く、等の言は彼の純苦の鬼と畜とを等す。彼の中の頼耶に捨受有りと雖も、余識の中の苦受猛盛なるに映奪せられて現ぜざるが故に苦受のみと言う。一向苦受とは客受に拠りて言う、略して捨(第八の捨)を云わず」と。
 

 客受について - 

(1) 五識に相応する苦受を第六意識において説く場合。         (2) 第六意識と倶である捨受 の二つの意味があります。ここは(2)の意味になります。 どうして彼の文は第六意識と倶である捨受のみが説かれているとわかるのか、ということです。捨受が地獄で成立しない理由を尋ねているのですね。それに対して、安慧の答えを想定して『述記』は述べているのです。意訳しますと、『瑜伽論』五十一に地獄のすべてと一分の鬼畜を一向苦と名づける。不苦楽受(第八識の捨受)は純苦の為に映奪(隠され紛れてしまう)されてしまうので、略して論じられていないのである。このことからも地獄には捨受は存在しないことがわかるのであって、余の三に憂受が入っていないのであり、捨受が入っていることがわかるのである。 

 映(えい)について - 

 ようとも読む。隠す、うばうという意。奪もうばうという意。映奪は不苦楽受は純苦受の為に隠され奪われてしまって、現れてこないということ。

 これによって『瑜伽論』では阿頼耶識と末那識の所論を略して、六識に約して論じている、ということになり、地獄に存在しないのは楽受・喜受・捨受という余の三になり、憂受は地獄に存在するという主張になるのです。 

 二は論破する。

 「彼には定んで意根を成ぜりとは説かず、彼には六の客の識有る時には無きが故に」(『論』第五・二十四右)

 (地獄には必ず意根が成立しているとは説かない。地獄には五識と相応する苦受を第六意識において説く場合、その依り所となる六識そのものが存在しないからである。)

 『三十頌』第十六頌に「意識は常に現起す。無想天に生ずると無心の二定と睡眠と悶絶とを除く」 と云われていますが、第六意識は常に活動するといわれてはいるけれども、睡眠と悶絶や五位無心の時には活動はしない、間断するのですね。地獄は純苦の処であるので、悶絶の状態にあり、間断することになって、意根(前滅の識)も存在しないことになり、その場合六識そのものも存在しないことないなる、と。
 此れに対して安慧の反論が『述記』に述べられています。「その六転識は生と死と悶絶との諸位には行ぜざるをもって、若し彼れ救して意は主の意に依っていい、受は客に依って説く」(意根は前滅の意で述べているのではなく、意根は主の意(阿頼耶識)に依って述べているのであり、受は客に依って説いているのであるから問題はない、と。この釈明を更に次の(三)で、論破します。   (つづく)


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