唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (6)

2012-04-01 14:56:09 | 『感の教学』 安田理深述

 2月19日のメールアドレスが間違っていました。訂正します。お叱りは、

          anjali.tutomu@tune.ocn.ne.jp

 までお寄せ下さい。 前週につづき 『感の教学』 を配信します。

 「親鸞教学はわれわれに近すぎるものですから、却って禅師の場合に照らして非常にはっきりとすることが出来る。前後を裁断した源泉の湧出に、唯仏与仏の照応があるのだということが出来る。本来の面目というものが眼横鼻直という直接開示となっている。そこに遠くに思想されていた法性真如が、現前の事実として躍動しているのであるが、しかしそれは飽くまで純粋知性的である。純粋知性的ということは、決して思弁的ということではなく、寧ろ思弁を排除しているが故に純粋というのである。ただそれがあくまでも知的である。同じものでも親鸞の場合は感覚として表された、本来の面目を純粋知性の内容とせず純粋感覚として表すところに親鸞がある。感覚的事実としての本来の面目は宿業の凡夫である。先生を通して親鸞をみるとそういうことが出来るのでないか、こういうきわめて個性的な違いがどうして親鸞に出てくるか、それは親鸞の立場が、凡夫的人間であるという自覚に由来すると思います。凡夫は知的自覚ではなくして感覚的自覚である。宿業の凡夫というのは知性的立場でいっておる表現でない、感覚的自覚の立場に立っていうのである。

 人間の本質は凡夫であり、凡夫が本来の面目であるという人間観での表現である。親鸞の教学にも悟りということもあるのではないか。自覚的な知というものを証とか悟とかいうのであれば、凡夫にも悟りという一つの自覚はあるのではないか、というより一つの自覚として凡夫というのである。凡夫であっても凡夫という自覚は一つの悟りである。凡夫の悟りというと、悟ったら凡夫でないじゃないか、凡夫と悟りということは矛盾する概念のようであるが、必ずしもそうと限るわけにはいかない。凡夫も悟性的な分別によると却って凡夫の自覚を失うているのである。凡夫の悟りとはもとより凡夫である人間が自己に帰るのである。本来の自己に帰るのである。こういう人間の自覚としての凡夫の悟りというものは本能の感覚である。本能の感覚によってみると、知の立場で遠く求めて得られなかったものが脚下に見出されてくる。純粋の悟りというものは道元禅師の悟りと親鸞の悟りと、悟りそのものにいくつもあるものではないでしょう。悟りの本質は二人にあるがままが、二人を超えてそのまま一如だといわねばなりますまい。問題はこの悟りがあくまで公開的であることにあるかと思います。公開的とは表現となることであり、思想となることであります。悟りそのものは全く一つのものであっても、それが思想となる時には独自な個性というものをもつ、個性のないところに思想はないのである。知の教学は無個性ではない、純粋知性も純粋化感覚もそれぞれに個性的である。同一普遍性を個性的に表現しているところに思想というものがある。感覚の教学も感覚という固有性に於て、あくまでも普遍的・公開的であろうと欲するのである。悟りは誰かにある存在であるが、しかし誰かの所有であることは出来ない。特殊な誰かの所有ではなしに、誰かの特殊な差別に犯されずに、誰にも何時でも何所でも公開されてあるということです。つまり所謂自性唯心的な体験であっては、誰もそこに入ることも出来ないし、また誰のところに出て語り合うことも出来ない。こうした閉鎖性が破られてあること、悟りが孤独的でないことです。誰も私は駄目だと遠慮する必要はないし、同時にまたわれのみと自惚れることも出来ないものとなること、茲に純粋知性がその純粋性を失うことなくして、純粋感覚として悟入せしめる道の開示されることが要められるのでないか。純知というものに反対しそれを否定しようというのではない。 

 寧ろ逆にそれを具体にしようというのである。純粋知性を失うことなくしてしかも直接具体的なものとして、私に近づけることである。親鸞の教学はこれをどんな人間にも了解出来るものとしてきた。究極的にいえば凡夫もうなづくことの出来る感覚として明らかにして来た、凡夫の身になることによって、凡夫の身体的自覚、即ち感知されるものになった、親鸞も安養浄刹の覚悟という表現もあることですが、それは公開された覚悟でありましょう。浄土は真証というものでありましょう。

 純粋知性というものは仏教語では如来性であり、如来智でありましょう。その遠い如来性を変えることなく凡夫の身の上に近く開放してほしい、現実の生々しい人間、名もなき民衆に開放されたいというのが、親鸞の教学というより宗教本能そのものの欲求である。純知の立場では如来性への超越であるが、今いう開放は凡夫への超越であるのです。それが宗教的本能の欲求である。宗教的本能が凡夫の自覚として自分自身を成就したいのであります。道元禅師は眼横鼻直の自己を身心脱落、脱落身心というていられます。脱落は実存的超越である。それを凡夫の自覚としてみれば感覚である。最も遠いものは実は最も近いということを語っているのではないか。急がば回れということがある。方向転換である、禅師の所謂廻光返照の退歩である。如来に接せんならば、凡夫の自己に帰れである。如来性にうなづけんのは凡夫に帰れぬからである。凡夫の脚下に如来は既有なのである。当下認得とは凡夫の身に感覚することである、と思うのです。

 ところで感覚ということですが、感覚的という言葉は一面外感という意義であります。見聞覚知の印象です。外界の感覚である。心理学でいうところの感覚とはつまり外感である。意識経験の最初のものとして立てる心的要素である。実はそうしたものは最も抽象的な概念なので経験内容として確かめることは不可能なのですが、心理学の学問的要求として立てるのです。今ここでいう感覚は、その外感に対して内感といわなければなりません。

 これは外界の印象ではなくして、われわれがわれわれ自身を反省する時に、自己そのものの自覚として成立するのが内的感覚というものである。これは何等表象的なるものではなくして、寧ろ表象を要せず当下認得という明証、エビデンツというものである。われ思う故にわれあり、という事実が事実を証明している自明性こそ正に茲にいう内観の明証であるのです。内観は内感であるのです。これを純粋感覚というのは、内感されるものが主観的表象でなくして原始的存在としての自己であるからである。自己は自己の観念ではなくして原始的事実である。いわば如が来となっているのです。自覚といい、反省という内観の途は勿論容易ではない。自覚というものが無限なのである。直感を無限に反省することに依って自覚が展開されてゆく、自覚が自覚に止まるならば、それは自覚の実体化である。自覚するということも自覚されなければならぬ。自覚は無限である。不覚ということも自覚によらなければ言えぬ。如来智は深広無涯底というのが自覚というものである。しかしそれが如何に無涯無底であっても、自己が消えたのではない。やはり自己の無涯無底でなければならない。無涯無底の世界を知るような自己が先づそこに見出されなければならない。内観の事実としての自己によって、いかに自己を超えた無涯無底の世界も、私に内観されるものとなるのである、如といい如来というのは、そういう理性的観念即ち理念ではない。それ故に法・法性といわれているのである。主観を破ってぶつかった存在である。しかし如何に主観的観念を破ってもやはり知られた内容でなければならぬ。単なる無ではないであろう。考えたものではないが、また知られぬものではない、考えるより更に明らかに知られたもの、明証でなければならない。根本的に知られたものである。考えるよりも明瞭に知られたものである、これを感覚というのである。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿