唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 諸門分別、第三門(独並門) ・ 釈尊伝

2010-09-18 23:40:26 | 心の構造について
 『仏陀 釈尊伝』 質疑応答より 主体性の問題について
 「老病死ということを、われわれはただ老人と病人と死人という、ただ人間の苦しいことに限って考えておったということが、今日までの仏教であったわけです。死の仏教、死後という意味で考えておったわけです。ですからそういうことに対して、そうじゃないといえるのは、主体性という言葉を思いだすというといえる。だから今日なお仏教という名前のもとに生きておるんじゃなくて、誰でも主体性を求めつつあるというところに生きておると、こう考えるべきではないかということです。
 そういう意味で仏教を見直していかなくては、この言葉というものは生きてこない。つまり仏教という仏という意味には、一つや二つの言葉で表現できないものがあります。普通は仏の十号と言われておりまして、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上仕・調御丈夫・天人師。仏世尊と。こういう言葉が大経にでております。世自在王仏のところにでております。善逝とはよく死ぬことができるということですね。われわれはよく死ぬことができない。仏というのはよく死ぬことができるということです。本当に死ぬことができると。死ぬときに死ぬことができるということです。それはなぜかといえば、死を解脱したら、もう死なんのではない。それは死ぬときに死ぬことができると。それが本当に生きるという意味です。ですから仏教という意味をさらに考えてみますときに、この十号を思いだしてみますと、意味がなかなか広いということがわかれます。まだまだありますけれども、一応、この十に概略説明しております。」 (つづく) 次回は仏の十号の了解がのべられます。 蓬茨祖運述より。
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   第三能変 別境 諸門分別、第三門(独並門)
 初めは、安慧の説。この五つの心所は決定して相資(あいたす)くのである(必ず互いに相い助ける)。一時に並生するという説。
 「有義は、此の五は定んで互に相資く、随って一が起こる時には、必ず余の四有りという」(『論』)
 「この師の意の説く、此の欲等の五は、もし一が起こる時には、必ず四ありという。相資くるとき、まさに作用して転ず。五は必ず倶生す。もし一が起らざるときには、余の四みな起こらず。これは安慧の説なり」(『述記』)
 次に護法の説(正義)が述べられます。互いに相い助けることも有りうるという。単独で有る場合・五が並び立ち起こる場合もあるという。これが二つの部分に分かれる。初めに他の説を論破し、つぎに護法の説(正義)が述べられます。
 

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