唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 遮遍行門

2010-09-17 21:11:58 | 心の構造について
     第三能変 別境 ・ 遮遍行門
 その(1) 主張を挙げる
 「唯触等の五のみを経には遍行と説けり、十と説けるは経には非ず、固く執ず応からず」(『論』)
 (意訳)ただ触等の五のみを経典には遍行と説いている。大地法に説かれている遍行の十は、有部の教学であって、経典に説かれているのではない。従って、これに固執するべきではない。
 「経では遍行というものは五である。遍行が十であるというのは、説一切有部の対法であって経ではない。対法といっても特定の部派の対法であって、固執することはできぬ。だからもっと根底に帰って考えて見ようというのである。それが経の精神に近づくものであるという。一切の心心所を成り立たせる地盤は五つに限るので、欲・勝解・念・定・慧は遍行に対しては特殊的なものである。遍行から独立せしめるところに主眼点がある。どこまでも特徴をもった作用として区別してあるが、そうかといって善や煩悩の心所になるには価値的な性格を帯びていないから、それらよりは基礎的な層をなすものである。そこで遍行から区別して別境であることを明らかにする」(『唯識三十頌聴記』 選集巻三P317)と、安田理深師は述べられています。
       - その(2) まとめ -
 「然も欲等の五は、触等に非ざるが故に、定んで遍行に非ざるべし、信貪等の如し」(『論』)
 (意訳) しかも、欲等の五は触等ではないので、必ず遍行ではない。それは信貪等のようなものである。
 「述曰。このうちに比量あり。欲等の五法は定めて遍行に非ざるべし(宗)。触等の五にあらざるが故に(因)。信貪等の如し(喩)」(『述記』)
 因明の立量の形式、三支作法に則って説かれています。


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