唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 独並門 (2)護法正義を述べる。 ・ 釈尊伝

2010-09-19 21:57:09 | 心の構造について

『釈尊伝』 より  ー 仏の十号 ・ 如来 -
 如来は、これは如より来たると。如と申しますのはありのままという意味ですね。われわれはありのままをみることができない状態であるということです。つまりなぜかというたら対象としてしかみることができませんから・・・・・・。砂糖は甘いというようなことですね。砂糖というものをあ舌でなめると甘いというふうにしか知ることができない。本当は砂糖というものは甘いというだけじゃないのです。少しも甘くない場合がある。われわれは砂糖を甘いと思うていますけれども、コーヒーの中に角砂糖のかけらをちょっとだけ入れたところで甘くないのです。それでも砂糖は入れたのです。砂糖が甘いというのはある程度の条件であって、ある条件以下では、もう甘くないのです。砂糖そのものは、かならずしも甘いというだけではない。われわれは物を対象化し、部分化してしかみることができませんから、それに対して仏の智恵はありのままを知ると。なぜかと。ありのままの世界から来たという意味があるということです。そういう意味が仏の教えという意味になるわけです。われわれはまた、その教えを聞いてありのままの世界へ入る。それを帰るとも申しますね。ありのままの世界に帰るということは、ありのままの智恵というものによって生きるという、そういう意味で同じ世界におりながら、また違った意味を同時に持つことができると、こういうような意味になりますね。 蓬茨祖運述より、次回は「応供」について述べます。

               - ・ -

  第三能変 別境 ・ 独並門(2) 護法正義を述べる 

  初めに、四一切の具欠から論破(別境の心所は、単独で起こるか、五が並び立つのかは不定であるという。)

 「有義は不定なり。瑜伽に、此処には四の一切の中に後の二無しと説けるが故に」(『論』)

 四一切は前にも述べましたが、『瑜伽論』巻三に説かれている、一切性・一切地・一切時・一切倶の一切を指します。(6月3日の項参照してください)

「五が中に、遍行には四の一切を具す。別境には唯、初めのニの一切のみ有り」(『論』)と説かれていました。

 (意訳) 護法は別境の五の心所は単独で生起するのか、五が並び起こるのかは定まっていない、という。その理由は『瑜伽論』巻三に別境には一切性・一切地は備えるが、後の二である一切時・一切倶を備えないと、説かれているからである。

 遍行は四の一切を備えているわけですから、四の一切を備えていない別境の心所は単独か並生かは不定であるというのです。

          - 四境によって論破 -

 「また此の五は、四の境を縁じて生ずと説けり。所縁と能縁といい定んで倶にして非ざるが故に」(『論』)

 四境とは、所愛(所楽)・決定・串習(曾習)・観察(所観)の境を指します。

 「不遍行の五種の心所は何れの各別なる境事に於て生ずるや、答ふ、其の次第の如く所愛、決定、串習、観察の四の境事に於て生ず、・・・」(『瑜伽論』巻五十五)

 (意訳) また別境の五は四つの対象を縁じて生じる、と『瑜伽論』巻五十五に説かれている。所縁の四境と能縁の欲等とは、必ずしも倶に存在するとは限らないからである。

 「もし境が必ずしも倶ならざれば、欲等も未だ必ずしも並ぶにあらず。所縁も能縁も各々定めて倶ならざる故に、必ずしも相資くるにあらず。」(『述記』)

 不遍行の五種である、別境の欲・勝解・念・定・慧はそれぞれ別々の境に対して生じるということです。所謂、欲は所楽の境み・勝解は決定の境に・念は曾習(串習)の境に・定と慧は所観(観察)の境をそれぞれ認識対象とする、ということです。従って安慧のいうように互いに助け合い、並生するとは限らないのである。次にこの詳細が述べられます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿