唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感

2017-02-11 11:09:20 | 聞法の意義
  

 随分冷え込んでいます。週明けからまた大変なのですが、体調管理ということもあって、今日明日連休させていただきました。でも今夜はKさんの快気祝い、Hさんの引っ越し祝い、某の誕生祝、嗚呼幹事さんご苦労さんです。明日は講座です。夜は懇親会。休まる暇ありませんね。来週は締め切り前で猛烈に忙しいです。酒を慎んで、体調管理を万全に臨みたいと思います。
 空に沈む 
   蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』 より

 「なぜかというたら、生まれて死ぬるものばかりですから、生まれて死ぬるものが、生まれて死ぬものがないんだということをつきつめてゆきますと、空。空という表現になりますでしょう。空であると。あるがままが空であると。いまわれわれがここにあると申しているが、実はないんだと。空なのだと。個々の存在、空なのだと。自分がおると思っているのが空なのだと、こういえるんですね。これもまた空に堕すんだと。空なのだというと、その空に沈んでしまう。空に沈んでしまうとどうなるか、困ることができてくる。沈むということは、息ができんことになるんです。

 なぜだというと、腹がへってくるとどうする。 「俺」 がおらんのに腹がへってくる。困りますね。 「ほっておけ、実はないんだから、そんなもの、かまうこといるものか」。 死んでしまいます。 「どうせなくなるんだから。ないものがなくなっても、もとどおりだ」 ということは、これは空見。空に堕する、という。自分だけはそれで、やせ我慢でおれるんです。自分だけ、やせ我慢しとおせるのです。つまり、おるから苦しむんです。この世におるからで、おらなくなればもう何も苦にやむことはいらん、と。これでは、 「空に沈む」 というんです。わたくしども、しばしばこの手つかうんです。わざと使うんです。人が何か苦情をもってきたりなんかする。よく聞いてあげる。 「もうしばらく待ってみたらどうだ」 というてやるんです。 「もうしばらく待ったってどうかなるか」。 「いやいや、もうしばらく待てば、どうかなるんだ」。 「どうなる?」。 「相手が死ぬだろう。あるいは君が先かもしれん。それまで待て」。 これにはよわってしまいますね。 「そういうことをいうから話にならん」 と。 「しかし、そうでないか。むこうが死んでしまえば、それでよいのだろう。問題はそれで解決。君が死んでしまったら、やはり問題はそれで解決。どっちでもよい、死ぬまで待てば、そう、青筋立てなくてもすむんだから」 と。そういうと、もういやな顔をして、それで 「私」 の問題は解決するですわね。厄介払いできます。いやな問題もってきたときには、よく聞いてやったあげくそういうのです。それで、もうあきれはてて行ってしまいます。

 「空に沈む」 ということはそういうことになるのですね。そういうことにこだわっておってはだめですね。問題がおこったらそんな、むこうが死ぬまで待っておるというようなこと、智慧のない話ですね。

 それで方便法身ということは利他、利他ということの意義なのですね。利他のために方便法身というのをもうけられるのである。そこに誓願というものが出てくるわけです。誓願というものをもうけてそこに方便法身というものを成就せられる。その方便法身がつまり智慧のかたちですね。智慧のかたち。つまり智慧のかたちは光明のかたちですから、ここに無碍光仏とか、あるいは無量光仏とか出てくるわけです。かたちはかたちだけれども、しかしかたちに即して無限ということが語られるのです。

 「御かたち」 とあります。 「御かたち」 は、荘厳という意味になりますね。このかたちはそのまま利他でありますし、したがって慈悲でありますね。利他ということは、つまり慈悲であります。大慈大悲であります。慈悲でありますからして、こんどは方便であります。慈悲によってもうけられたかたちである。方便である。ですから、智慧と慈悲と方便という。こういう意義が出てまいります。その意義をもっておるのが、この如来の尊号でありますから、したがってこの如来の尊号は、如来の誓願ですね。

 如来の尊号は、そのまま如来の誓願でありますから、それで、 「この如来の智願海にすすめいれたまうなり」 と結ばれてあります。」

 自分のことが分からないことが空に沈んでいるということだと思いますが、わかりませんね。空と虚無は似て非なるものですが、誤解をされやすいのです。それと無我と忘我です。無我=空=真理ですが、忘我=虚無思想で迷いです。それと、自分を棄てたら楽になるという考え方も我執ですね。依り所が自分ですからね。ここから抜け出せないです。たぶん死ぬまではです。でもね、そこに決着がついたらいいんだと思いますが、どうでしょうかね。
 唯識の講義もかれこれ五年から六年学ばせていただいていますが、みなさん水辺までは来ておられます。「水よく石を穿つ」といいますが、地道な学びがいまや花を咲かそうとしています。退転と超越の分水嶺ですね。「水を飲んでいただきたい」それだけです。

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