月愛三昧
雑染法と清浄法は何に依って有るのか、それが答えられてきます。
「彼の二は皆此の識に依って有り。転識等に依たりと云うは理成ぜ不るが故に。」(論』第三・十八左)
雑染法と清浄法の二は、此の第八識を依り所として起こってくる。
転識は無始より現在まで間断することなく相続しているわけではなく断絶があるので、雑染・清浄法の依り所とはならないのである。つまり、転識では涅槃の証得はなく、又生死に流転することも出来ないのです。転識も第八識を依り所として生起する所の識だからですね。
第八識は恒に一類相続して雑染法(流転の法。苦諦・集諦)と、
生は所趣の苦諦であり、生をもたらすものが能趣の集諦になるわけです。具体的には惑と業です。惑と業によって趣である「苦なり」の生があるのですね。生まれたということは、惑・業を因として生が果になるのですから、因は種子でしょう。迷いの種子(有漏種子)から迷いの生をうけたのです。第八識は唯それだけの用ではないということです。
清浄法(還滅の法。滅諦・道諦)との所依となる、このことを明らかにしているのです。
所証は涅槃、能証は道である。ここは先の説明の通りでありまして、能証の他に所証はないということです。
以上が第二解になります。
第三解は、
「或は復た初の句は此の識の体無始より相続せりと云うことを顕し、後の三は三種の自性の為に所依止と為るを顕す。」(『論』第三・十八左)
「無始時来界」(第一句)は、此の第八識は無始より現在まで間断することなく相続して、一切の現行の依と為る種子を貯蔵して、心を支えつづけていることを明らかにしているのです。
そして後の三は、
「一切法等依 由此有諸趣 及涅槃証得」は三種の自性という教えの為の依り所となることを明らかにしています。
三種の自性は、三性ですね。
一つは、依他起性
一つは、遍計所執性 } 三種の自性(三自性・三性)
一つは、円成実性
迷いと覚りの依り所と成る、それが第八識だと。
真宗でいいますと、法蔵菩薩ですね。法蔵菩薩を依り所として、迷いと覚りが有る、成り立っていると云った方がいいのかもしれません。目に見えるものではなく、つまみだすこともできませんが法性の具体性でしょうか。
「謂く、依他起と遍計所執と円成実性となり。次の如く応に知るべし。」(『論』第三・十八左)
「如次応知」は、本頌ですと、第二十頌・第二十一頌になります。そこでは三自性について詳細が語られています。
多川俊英師の現代語訳が素晴らしいので引用させていただきますと、(角川ソフィア文庫所蔵 『唯識とは何か』p35~37)
「ところで、私たちは一体、どのような世界に住んでいるのでしょうか。このことを改めて考えてみたいと思います。私たちはそこまで鉄面皮でもありませんから、さすがに完ぺきとはいえませんが、それでもまあ、それないに真っ当な判断にもとづいて生活している。つまり。、ほどほどに清く正しい世界にすんでいる。―――と、臆面もなく思っているわけです。
しかし、すでにみてきたように、私たちの分別(認識)は、八識のそれぞれが変化・展開して、分別するものと分別されるものという二つの領域に分かれることによって成立するものでした。そうした唯識の知見にもとづくならば、私たちの認識というのはどうやら、なんらものごとの実像を捉えるのでも、また、あるものをあるがままにみているのでもなさそうだ、と気づかざるを得ません。
そこでまず、私たちの日常世界とはどういうものなのか、それを端的に示すことにしましょう。そしてつぎに、一般的にみて、世界というものはどのようにして成り立っているのかをかくにんし、さいごに、私たちが真に求めるべき理想の、というか、あるがままの世界について考えてみたいと思います。
はじめに、私たち一人ひとりの日常世界ですが、その要点といえば、その時々のさまざまな思い計らいをからませて成り立っています。しかもそればかりか、その目の前の状況が好都合ならば貪り、不都合ならば毛嫌いするという執着の構図を重ねる念の入れようです。これを遍計所有執というのですが、そういう生活現場が、さも自分の認識している通りに展開している、とも思っています。が、そんな世界は自分の思い計らいや執着によって演出されたものにすぎず、実はどこにもないのです。(第二十頌の現代語訳)
第二十一頌の現代語訳は明日紹介します。
雑染法と清浄法は何に依って有るのか、それが答えられてきます。
「彼の二は皆此の識に依って有り。転識等に依たりと云うは理成ぜ不るが故に。」(論』第三・十八左)
雑染法と清浄法の二は、此の第八識を依り所として起こってくる。
転識は無始より現在まで間断することなく相続しているわけではなく断絶があるので、雑染・清浄法の依り所とはならないのである。つまり、転識では涅槃の証得はなく、又生死に流転することも出来ないのです。転識も第八識を依り所として生起する所の識だからですね。
第八識は恒に一類相続して雑染法(流転の法。苦諦・集諦)と、
生は所趣の苦諦であり、生をもたらすものが能趣の集諦になるわけです。具体的には惑と業です。惑と業によって趣である「苦なり」の生があるのですね。生まれたということは、惑・業を因として生が果になるのですから、因は種子でしょう。迷いの種子(有漏種子)から迷いの生をうけたのです。第八識は唯それだけの用ではないということです。
清浄法(還滅の法。滅諦・道諦)との所依となる、このことを明らかにしているのです。
所証は涅槃、能証は道である。ここは先の説明の通りでありまして、能証の他に所証はないということです。
以上が第二解になります。
第三解は、
「或は復た初の句は此の識の体無始より相続せりと云うことを顕し、後の三は三種の自性の為に所依止と為るを顕す。」(『論』第三・十八左)
「無始時来界」(第一句)は、此の第八識は無始より現在まで間断することなく相続して、一切の現行の依と為る種子を貯蔵して、心を支えつづけていることを明らかにしているのです。
そして後の三は、
「一切法等依 由此有諸趣 及涅槃証得」は三種の自性という教えの為の依り所となることを明らかにしています。
三種の自性は、三性ですね。
一つは、依他起性
一つは、遍計所執性 } 三種の自性(三自性・三性)
一つは、円成実性
迷いと覚りの依り所と成る、それが第八識だと。
真宗でいいますと、法蔵菩薩ですね。法蔵菩薩を依り所として、迷いと覚りが有る、成り立っていると云った方がいいのかもしれません。目に見えるものではなく、つまみだすこともできませんが法性の具体性でしょうか。
「謂く、依他起と遍計所執と円成実性となり。次の如く応に知るべし。」(『論』第三・十八左)
「如次応知」は、本頌ですと、第二十頌・第二十一頌になります。そこでは三自性について詳細が語られています。
多川俊英師の現代語訳が素晴らしいので引用させていただきますと、(角川ソフィア文庫所蔵 『唯識とは何か』p35~37)
「ところで、私たちは一体、どのような世界に住んでいるのでしょうか。このことを改めて考えてみたいと思います。私たちはそこまで鉄面皮でもありませんから、さすがに完ぺきとはいえませんが、それでもまあ、それないに真っ当な判断にもとづいて生活している。つまり。、ほどほどに清く正しい世界にすんでいる。―――と、臆面もなく思っているわけです。
しかし、すでにみてきたように、私たちの分別(認識)は、八識のそれぞれが変化・展開して、分別するものと分別されるものという二つの領域に分かれることによって成立するものでした。そうした唯識の知見にもとづくならば、私たちの認識というのはどうやら、なんらものごとの実像を捉えるのでも、また、あるものをあるがままにみているのでもなさそうだ、と気づかざるを得ません。
そこでまず、私たちの日常世界とはどういうものなのか、それを端的に示すことにしましょう。そしてつぎに、一般的にみて、世界というものはどのようにして成り立っているのかをかくにんし、さいごに、私たちが真に求めるべき理想の、というか、あるがままの世界について考えてみたいと思います。
はじめに、私たち一人ひとりの日常世界ですが、その要点といえば、その時々のさまざまな思い計らいをからませて成り立っています。しかもそればかりか、その目の前の状況が好都合ならば貪り、不都合ならば毛嫌いするという執着の構図を重ねる念の入れようです。これを遍計所有執というのですが、そういう生活現場が、さも自分の認識している通りに展開している、とも思っています。が、そんな世界は自分の思い計らいや執着によって演出されたものにすぎず、実はどこにもないのです。(第二十頌の現代語訳)
第二十一頌の現代語訳は明日紹介します。
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