唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(11) 別境 ・欲について

2013-02-23 12:23:38 | 心の構造について

 安慧の説と、正義である、護法の説が挙げられて説明される。

 別境 欲の対象である所楽の境とな何か

 「下に三師の解あり。此の中の所説は、第一に総意なり。」(『述記』)

  •  第一師 - 可欣(かごん)の境であるという説。(安慧等の説)    
  •  第二師 - 所求の境であるという説。
  •  第三師 - 所観の境であるという説。(護法正義)

 第一師の説が二つに分かれて説明されます。初めは境に対し欲が起きる場合について述べ、それがまた、二つの部分に分かれて説明されます。可欣の境に対して欲を生じるということを述べ、そして問答を通して説明されます。後半は境に対して欲が起きない場合について述べています。

 可欣の境に対して欲を生じるということを述べる。

 「有義は、所楽とは、謂く可欣の境なり。可欣の事に於て、見聞等を欲すれば、希望有るが故に」(『論』第五・二十八右)

 第一師の説が述べられます。安慧等の説といわれています。第一師の説が二つに分かれて説明されます。初めは境に対し欲が起きる場合について述べ、それがまた、二つの部分に分かれて説明されます。可欣の境に対して欲を生じるということを述べ、そして問答を通して説明されます。後半は境に対して欲が起きない場合について述べています。

 所楽というのは、可欣の境である。(可欣の境とは、自分にとって望ましい対象。)何故ならば、自分の望ましいと思っている事に対して、見聞しようと欲する時に、希望があるからである。

 「その可欣の境とは有漏と無漏となり。可欣の事のうえに方に欲を生ずるなり。これは情の可欣なるに拠るが故に、三性に通ず。ただ無漏にみ実に可欣の法なるに非ず。可欣の事において見んと欲し、聞かんと欲し、覚せんと欲し、知らんと欲す。故に希望あり。」(『述記』)

 欣は〝ねがう〟という意味でありますから、ねがうべきという意味になります。何を願うのかといいますと、自分の欲するべきことを願うということですね。自分の情に基づいて自分の欲する所に拠るのであるから、可欣の対象には有漏・無漏の両方が有り、また三性に通じるのである、と。有漏とか無漏とか三性に、見ようと欲し、聞こうと欲し、理解(覚・知)しようと欲する、そのために「希望有り」、希望することが生まれてくるという。可欣の反対は可厭ですが、次に出てきます。

 後は問いと答え

  •  問 「可厭の事に於いては。彼には合せずと希ひ、彼には別離せんと望むるに、豈に欲あるに非ずや」
  •  答 「此れは但、彼には合せずして離れんと求むるに、時には可欣の自体あり。可厭の事には非ず」(『論』第五・二十八右)

 「これは外人の問いなり。謂く、苦穢の事等のうえに、未だこれを得ざれば、彼には合せじと希い、すでに之を得れば、彼には別離せんと望む。豈、欲するにはあらずや。可厭の事を縁ずるも欲すでに生ずることを得。如何ぞ、ただ可欣の事にのみ欲を生ずというや」(『述記』)

 可欣の事だけではなく、可厭の場合にも希望を起すではないか、にもかかわらず、何故に可欣の事のみ欲を起すと云うのか、という問いです。) 外人の問い、といわれていますが、仏教以外の宗教家という人達を指します。

 「論主答して云く、これは可縁の事を縁ぜず。謂く、この欲はただ、かの自の内身の可厭に合せじとする位と、および後に離する位と、もしは外境を欲する此の位とには、即ちこれ可欣の事を縁じて生ずるなり。可厭の事にはあらず」(『述記』)

  •  問 - 可厭(いとうべきことー嫌なこと、もの)の事に対して、未だ合していないものについては、合しないでおこうと希い、すでに合していることについては、離れないでおこうと希うことは、欲ではないのであろうか。
  •  答 - これはただ、彼には合しないでおこう、あるいは、離れないでおこうと求める時には、そこには可欣の自体が働いているのみであって、可厭を願うからではないのである。厭うべき時には、必ず可欣の事を縁じて生ずるのである。従って可厭の事ではない。可欣のみを所縁とするのである。

 「可欣の自体あり、可厭の事には非ず」を解説します。自分自身が何を欲するのか、しないのかは、自分の欲の心所が求める対象が、自分にとって楽な状態、願わしい状態、求めるべき状態を指しているのです。可欣の自体は自分にとっての最良の状態を願うということですね。それしかないわけです。病気になって病気を厭うのは、病気を願い、求めているわけではないですね。自分を愛するが故に、病苦からの解放を願うわけです。これが元です。可欣の自体のみがあるということですね。自分は何を欲しているのかと云うと、ただ、可欣の事のみを欲しているのであって、可厭ということは成り立たないことになるのです。

 可欣の境に対して欲が起きない場合につては

 「故に、可厭と及び、中容との境においては、一向に欲無し。可欣の事を縁ずるも、若し希望せざれば、亦欲起こること無しと云う」(『論』第五・二十八右)

 その為に、可厭や中容のものに対しては、一向に欲は起こることがない。よって希望は起こらないと云う。また、可欣の事を認識しても、もし希望しない時には、また欲は起こることはないと云う。

 可厭の処は即ち六識に通ず。あるいはただ六識のみなり。その中容の境は八識に倶に通ず。全く欲を起さず。彼を欣わざるが故に。可欣の境にあらざるが故に。境は可欣なりといえども、もし希望せざるときには、また欲の起こることなきなり。ただ前六識なり。邪見の滅道を撥するときにも、また欲あることなきが如し」(『述記』)

 これが第一師の説になります。

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 第二師の説 - 所楽は所求の境であると云う説

 「有義は、所楽とは謂く所求(しょぐ)の境なり。可欣厭(かごんおん)の於に合せんと離せんとの等く求むるとき、希望すること有るが故に」(『論』第五・二十八左)

 これは第二師の説である。所楽とは、所求の境をいう。可欣に可厭をも含むと云う。「ただ、かの可欣の事を求むるうえに、未だ得ざるものに合せんと欲し、すでに得たるものに離れずと願う。可厭の事において、未だ得ざるものに、合することを得ずと願い、すでに得たるものに別離せんと願う中にみな欲を起すことを得。故に論にはただ「合せん離せん等を求む」というは、不合不離を等取するなり。即ちこの二を縁じてみな欲を生ずることを得るなり。・・・故に体は第一より寛なり。ただ第七識なり。あるいはただ第六識なり。この欲あるが故に」(『述記』)

 第ニ師の説は第一師よりも範囲がひろいです。可欣の境に対しても、可厭の境に対しても欲は起こるといいます。未だ求めて得られないものについては、それを得ようと願い、反対に得ている場合には、それを離さないでいたいと願うというように希望する。可厭の場合は、厭うべきものが有るときは、離そうと願い、無い時には合しないでいたいと願うと云うように希望する。共に欲の対象として広く解釈している。

 「中容の境の於には一向に欲なし、欣厭の事を縁ずれども、若し希求せざるときには、亦欲の起こることなしという」(『論』第五・二十八右)

 第一師と第二師に共通していえることは、中容の境に対しては欲は起きないと云う事です。正義は中容のものも、欲の対象になるという立場をとりますので、第一師・第二師の説は不正義ということになります。 『樞要』に「若し資具什物を求希する欲有りと云えり。禾稼(カカ・穀物、穀類の事)等豈に欲なからんや。故に並びに正にあらず」と、即ち資具・什物(日常の生活用具)といったものや、麦や米などといった穀類そのものは、欲の対象にならないのか。資具・什物・穀類そのものは中容であるかもしれないが、自分と関係する時には、中容の境ではなく、自分から見て欲するものであるから、中容のものも欲の対象になるはずであるという立場から批判しています。ただ欲の対象になると可欣の境ということになるので問題は出てきます。それを護法は所楽とは欲観の境であるという。

 護法正義を述べる。所楽は欲観の境なり

 「有義は、所楽とは、謂く欲観の境なり。一切の事の於に観察せんと欲するには、希望すること有るが故に。若し観ぜんと欲せずして、因と境との勢に随って任運に縁ずるには、即ち全に欲無し」(『論』第五・二十八左)

 欲観の境とは「一切の事のうえに、もしは合し、もしは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり」(『述記』)

 護法の説(正義)は、所楽とは、欲観の境である。可欣も可厭も中容も所楽となりえる。一切の事に対して、観察しようと欲するときには、希望するものであるからである。もし観察しようとは欲しないで、因と境との勢力に随って、任運に認識対象を認識する場合には、そのすべてに欲は無い。

 欲観の境とは、心を作意して境を観じようという欲の対象となる境のこと、といわれます。第七識と第八識の二識と六識の異熟心等の一分は、任運に境を認識するので、欲と倶ではないという。それは「因と境との勢力に随って」ですね。欲が起こらない、といわれます。欲が生じないことがあるので、遍行ではない、ということになります。しかし任運に生じないときは、可欣・可厭・中容のいずれであっても、観察しようとするときには、希望する心の働きである欲が生じるというのです。「見ようとする」とか「聞こうとする」、意欲が生じるときに、よくの心所があるのですね。第七識と第八識、そして、第六識の異熟においては、自然に起こってくる意識なので、欲の心所ではないということです。それで遍行ではなく別境であると。有部の大地法を批判していくわけです。

 「斯の理趣に由って、欲は遍行に非ず」(『論』第五・二十八左)

 以上の理由によって、「欲」の心所は遍行ではないことを証明する。


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