「論に、大悲は無瞋・癡に摂められて、根に摂めらるるには非ずと説けるが故に。若し彼いい無癡は慧を以て性と為すといわば、大悲をば、力等の如く、慧等の根に摂む応し。」(『論』第六・四左) 論(『瑜伽論』巻第五十七)に「大悲は無瞋・無癡に摂められて、二十二根に摂められるものではない」と説かれているからである。若し、彼(第一師)が、無癡は慧を自性(体)とすると主張すれば、大悲を、十力四無畏等のように、慧等の二十二根に摂められなければならないであろう。 『瑜伽論』巻第五十七(大正30・619b)の所論は、「大悲亦彼所引無瞋無癡所攝。非根所攝。無忘失法如力應知。」(大悲も亦た彼の引く所の無瞋・無癡の所摂にして根の所摂に非ず。忘失無き法は(十)力の如く応に知るべし、」)と。 『瑜伽論』の大意は、大悲は無瞋・無癡を体としていると説かれているのであって、二十二根を体としているのではないと説かれている。即ち、第一師の主張のように、無癡が慧を体とするものであれば、大悲も十力のように二十二根の中の慧根と三無漏等の根とを体としていると、『瑜伽論』に説かれているはずである、という。 (つづく)
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