唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

随想 「聞光」 十号より転載

2014-06-11 23:29:03 | 心の構造について
  

「くしゃくしゃになって」
 昨年の聞光洞報恩講において、自分の中でどうもすっきりしないというか、もやもやとしてものが覆っていましたので、高柳先生にぶつけてみました。先生は少し考えられておられましたが、やがて「くしゃくしゃになって生きていったらいいんではないですか」という旨の教えをいただきました。
 しかし、自分の中で先生の教えていただいたことが頷けないでおりました。時間ばかりすぎて昨年の暮れの唯識の会だったと思います。ふと自分の中に、くしゃくしゃになれない自分がいることに気づかされることがありました。唯識を学びながら自他分別をしていることに気づかないでいたということなのです。その時に、自他分別しかないではないか、自分から他人様のことを思いやるということは有り得ない、すべては他人様からの賜りものを頂いているのではないのか、ということに頷きをえました。
 のたうちまわったり、くしゃくしゃになったりですね、これを受け取ることはできなかったんです。何とかこのような閉塞状況から解放されたいという欲求心ばかりが出てきて、この閉塞状況を作っているのは自分ではない、他が悪いんだ、と責任を転嫁してばかりでありました。
 このような状況を破ってくれたのが、自分の中に蓄積されているすべての経験の量(種子)は、阿頼耶識の相分であるという衝撃的な教えでありました。
 嗚呼すべては自分が作ってきた世界だったということなんですね。そこに背いてきた自分がいたということでした。のたうちまわったり、くしゃくしゃになったりすることは嫌だという自分がいることを知らされた時、高柳先生が仰っていただいたことは、「すべて受け入れて生かされているんですよ。ですからくしゃくしゃになって生きていけるんですよ」ということを教えてくださっていたのではなかったか、と思いいたることになったんです。顚倒の生き方が顚倒のままに生き得る世界が開かれていたということでしょうか。
 一月の唯識の会の折にですね、煩悩の問題がでまして、何故煩悩が流出するのかですね、流出してしまっているのが煩悩なんですが、有漏ですね。
 有漏の漏は、アビダルマでは「不浄を流出すると、三界に留任させる」という意味で漏が使われているんですが、それとの関わりでしょうか、漏を漏泄(ロゼツ)ともいい、ともにもれるという意味と、ながながと引きずるという意味に使われているんですね。
 流出ですが、何故漏れるのかという問題ですね。ここに倶生起と分別起の法・我執の問題があるのではないでしょうか。阿頼耶識の流れは、「恒に転ずること暴流の如し」と云われていますように、一時たりとも留まるということはないのですね。しかし我は常として留まるのです。本来は無我と教えられていますから、我と無我の流れの中で我は堰を造ってしまうのでしょう。我は有漏、無我は無漏ですね。流れに堰を造ってしまいますから、容量を超過しますと、当然のこととして溢れ出します。この溢れ出しているのを煩悩と呼んでいるのではないのかと思うんです。堰は我執ですね。表面は六識相応の煩悩であり、堰の中に留まっているのが末那識相応の四の煩悩ということなんでしょう。
 また、問題はですね。表面に現れた根本煩悩に対しての善、所謂有漏の善ですが、ここでの善行というのは倫理・道徳の問題になるのではないでしょうか。倫理・道徳は非常に大切な人倫の道なのですが、漏れているところがあるんです。根にですね、堰の中に留まっている染汚・ヘドロが隠されているんですね。有漏の善はどこまでいっても、雑毒の善であり、行は虚仮の行になるのでしょう。雑毒の善・虚仮の行を尽くしても無上大涅槃を得ることはできないといわれています。
 親鸞聖人は『信文類』(真聖p215)に「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。」と教えておられます。竪超の道ですね。どこまで尽くしても超えられない壁があるということでしょう。それは「中に虚仮を懐いて」という倶生の染汚が漂っていることにメスを入れていないからなのでしょう。これが有漏の種子の問題になるのではないでしょうか。ここに無漏の種が説かれなければならない必然の問題があるように思えてなりません。
 無漏の種子は、無我の種子ですね。仏果ですから、異熟果の識ではないということです。すべて善性である。因は現行の無漏智であり、その所熏が無漏種子。現行の果が無漏であるならば、熏じられる所の種子も無漏であるということになります。ここに仏道を歩むという最大の課題があるのでしょうね。
 有漏から無漏へという課題にどうやって答えていくのか。親鸞聖人の課題もここにあったのではないでしょうか。
 「雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。」
 有漏の善をつくしても、超えられない道がある、もし有るとするならば、その道とはいかなる道なのか。このような問いが、問いに先って問いを生んでくる背景があるのでしょう。それが未来からやってくる。浄土から穢土へという還相の相なのではないでしょうか。それに応答していく相が往相ということになり、横超の道として、有漏から無漏へ超えることが可能となることを教えておられるのだと思います。
 『浄土論』(真聖p141)に「すなわちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。」と述べられている背景には、菩薩十地の階位に於いて、七地から八地という絶壁が立ちはだかっているところを超えることができるのかという、菩薩が絶望ともいえる大海原を眼前に立ち尽くして行き場をなくしてしまう死との葛藤があったのではと思うのです。
 親鸞聖人も、この荘厳不虚作住持功徳成就を大切になさいまして、『信文類』(真聖p285)に引かれて横超の大菩提心を明らかにされています。
 「また言わく、「すなわちかの仏を見れば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえに」とのたまえり。「平等法身」とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。(「寂滅平等」とはすなわちこの法身の菩薩の所証の)寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて「寂滅平等の法」とするなり。」と。
 『大経』に「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」(真聖p39)と経文に述べられていますが、私たちは、本来、自然に身と体を受けているんでしょうね。これは事実と相違するかもしれませんが、私が生れる寸前にですね、産道を通過するときにですね、余りの衝撃と云うか、痛さに悶絶するというんですね、そうするとですね、過去の記憶が消え去ってしまう。いうなれば無想定の状態で生まれてくるわけです、ですから眼を覚まさなくてはならないのですね、オギャとですね。これを没するといいますけれどもね。本来の自己を忘却の彼方に置き忘れてくるんです。、そうしますとね、私たちが生れてきたことは、故郷を喪失して生まれきたということになります。そこにですね、「三界濁悪世には止まるべからず」と教えられるんですね。本来の身と土を置き忘れて、仮の身と土を本来と顛倒し、執着をしているのですが、これは四諦の理に違背していますから、苦悩が現出してくるのですね。苦悩の現行は本来生の乖離から生まれてくると言ってよいのでしょう、と私は思いますが。
 生きとし生けるもの、衆生ですね。衆生には自然治癒力という力が有ると云います。現在は全くといっていいほどサプリメントに依存していますから、自然治癒力や免疫が低下していますけれども、これも自然に逆らって生きている、顛倒なんですね。これもですね、本来の方向性が見えないから起こってくる問題なのでしょう。本来性とは、故郷回帰性なんだと思います。私たちは本来の身土を求めているんですね。求めているんですが、求めていることに先立って「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と、「この現前の境遇に落在するもの」に開きを得るのでしょう。
 すべては自分が造ってきた境遇であったということですね。今の環境のすべてです。今日は聞法会だ、どうしても行かなくてはならない、しかし、どうしても外せない用事ができてしまった。やむを得ず聞法会は欠席することにします、ということもですね、私が造ってきた状況なんですね。他からやってきた条件ではないのです。すべてなんですね。自分が自分で作ってきた状況に振り回されているに過ぎないのです。「嗚呼そうだったんだ」という頷きですね。この頷きが回向なんでしょう。回向にあずかる、ということは本来の自己に帰るという頷きなんでしょうね。そこには、背いてきたという事実があるわけです。背いてきた過去を引きずって今が有る、今の自己存在が有るということなんでしょうか。今といってもですね、過ぎ去った過去でしかないわけです。自己中心的に云うならばですね。未来はないわけです。果てしのない放浪の旅を余儀なくされるのでしょうね。しかしね、本来回帰性という原点からはですね、未来から現在に向かって「西岸上に人ありて喚ぼうて言わく汝一心にして直ちに来れ、我よく護らん」という、「能生清浄願往生心」の賜りなのでしょうか。
 唯識で、種子論ですね、本有種子と新熏種子という議論からですね、五姓各別と云う思想もうまれてきたわけですが、差別思想と云うわけではなくてですね、仏教徒の厳しい自己との格闘があったのでしょうね。一面からいうと、本来の無漏種子がないと解脱は出来ない。熏習を重ねても重ねても有漏の種子を増長するしかできない。そこには大きな隔たりがあってどうしても超えることのできない金輪際の壁が立ちはだかっているといわざるを得ないのですね。しかし、聞熏習を重ねることにおいて、恰も「麻の香気の華を以て熏ずるが故に生ずるが如し」といわれていますように、熏習に由って種子が有るということにも頷きを得るわけです。
 私たちは、人として生を受けたということですね。三悪趣を離れて人として生まれたということです。人の果報を受けたのですね。源信和上は「人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。」と。人として生を受けたのは、菩提を願うことだと教えてくださいました。「また妄念はもとより凡夫の自体なり。妄念の外に別の心もなきなり」と、妄念の外に自己存在は無いんだと言明されています。妄念が自体とは、無根ですね。仏じ成る資格のない者ということになりますが、ここにこそですね、仏に成ることの出来る道が開かれてあるということなのでしょう。
 「世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。「無根」は、我初めて如来を恭敬せんことを知らず、法・僧を信ぜず、これを「無根」と名づく。世尊、我もし如来世尊に遇わずは、当に無量阿僧祇劫において、大地獄に在りて無量の苦を受くべし。我今仏を見たてまつる。これ仏を見るをもって得るところの功徳、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ、と」(真聖p265)
 これからも、泥まみれになって、くしゃくしゃのままに、生かされている身をいただいて、のたうちまわりたいと思います。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-06-22 14:05:07
「聞光」というのは、聞光洞の機関誌にあたるのでしょうか?
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