唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (94) 三断分別門 (8)

2015-04-30 00:32:58 | 第三能変 煩悩の心所 三断分別門
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 分別起の根本煩悩の十(見所断の煩悩)、つまり、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見(薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)が、四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)に迷うあり方について、総迷と別迷が有ることが明らかにされ、さらに、総迷に数の迷いと、行相の迷いがあり、別迷にも数の別と行相の別があることが明らかになりました。
 個別に説明される段において、総迷とは十の煩悩がともに皆、四諦に迷うこ、これが総迷ということであり、、苦諦と集諦という苦の原因(因と依処)と、滅諦と道諦という苦を滅する八正道は、分別起の十の煩悩を怖畏するものだからであると説かれて、分別起の十の煩悩は、苦諦と集諦の二つの諦に迷い、滅諦と道諦の二つの諦に迷うことが説かれいます。これは行相の総として説明されています。
 別迷についても、数の別と、行相の別が説かれています。数は四諦を表していますが、別は個別という意味であり、四諦の一つ一つの相に迷って煩悩が生起することを言っています。これは、四諦の一つ一つに固有の行相が有ることが示されています。それが四諦の四行相、つまり、四諦の十六行相なのですが、苦諦で明らかにされた、苦・空・無常・非我の四行相の中で、空・非我に総の空・非我と別の空・非我という区別があることが明らかにされています。総の空・非我は四諦に通じて、諸法無我・一切皆空として共通していますが、別の空・非我は苦諦固有のもので、「別とは、謂く、別に四諦の相に迷うて起こるなり、二(薩迦耶見・辺執見)は唯苦のみに迷い、八は通じて四に迷う」という一段が別の空・非我を表しています。
 数の別 ― 四諦の一つ一つの行に迷って煩悩が生起こすること。四諦固有の四行相を了解することなく、煩悩を起こすことであり、詳細すれば、薩迦耶見と辺執見は苦諦にのみ迷い(苦諦には十煩悩が倶起する。)、残る八煩悩は四諦すべてに迷うということになります。つまり、四諦に迷う煩悩の数が違うと云うことから、数の別、四諦四行相の諦固有の行相の相違により、苦諦には十煩悩が迷い、集諦・滅諦・道諦には八煩悩が迷うという、迷う煩悩の数が相違することから、別迷を数の別と云っています。
 また別迷の三諦に別の行相があるのは、癡は不共無明であり、不共無明の三諦に迷い、八つの煩悩が相応することが別迷であることが示されています。相応無明で説かれている場合は、四諦に迷うのは十煩悩になるからである、と明らかにしているのです。
 ここまでを簡単に整理してみました。 

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