唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第八倶転門  随縁現 (3)

2010-10-27 23:00:47 | 心の構造について

S200912021250_migoro 随分冷え込んできました。今年の紅葉は11月下旬頃が見頃だそうです。湖東三山の紅葉にはうっとりさせられますが、ライトアップされた紅葉は幻想的な雰囲気をもって私たちを出迎えてくれます。一献傾けながら人生を語り合うのも晩秋ならではですね。妄想ですが息子とともに一献傾け合う日を夢みています。

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           第三能変 第八倶転門  

           ―  随縁現  (3)  ―

 「縁と云うは謂く作意と根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)

 (意訳) 諸識が生起する縁とは作意と根と境とそれぞれの識生起の等きの縁に依るのである。眼識は九縁・耳識は八縁等という衆縁所生という。 10月25日の項参照してください。

 その理由を述べる。

 「謂く五識身は内には根本識に依り、外には作意と五根と境との等きの衆縁の和合するに随いて方に現前することを得。此れに由って或る時には倶なり或る時には倶起ならず。外縁の合することは頓・漸有るが故に」(『論』第七・九左)

 (意訳) 五識身は内には阿陀那識に依り、外には作意(能令心驚覚といわれ、遍行の一種・深層の阿頼耶識のなかに種子として眠っている心を驚かし喚起して目覚めさせ、目覚めた心を対象に向かわしめる心作用である)と五根と境との等きの衆縁の和合するに随って識は現前する。いろいろな条件が重なって動くときも有るが、動かない時も有る。五識は縁の具不具に由って現前することは多少有るのである。

 「述曰。五識は内には本識に託すと云う、即ち種子なり。外には衆縁に籍るに由る。方に現前することを得と云う。種子は恒なりと雖も、外縁の合するに頓漸あるを以て、五を起し、或いは四・三・二・一の識は生ずるが故に。或いは五より一に至って生ずること不定なり。故に或いは倶、或いは不倶なり。

 七十六の解深密に説く。広慧、阿陀那を依止と為す。建立と為すが故に。若し、その時に一の眼識の生ずる縁、現前することあれば、即ち此の時に於いて、一の眼識は転ず。乃至、五の縁が頓に現前すれば、即ちその時に於いて、五識身は転ず等と説けるが故に。五識は縁の具と不具とに由るが故に、生ずること多少あり。或いは倶なり、倶ならざることもあり」(『述記』第七本・四十九左)

 『論』に「内・外」と言われていますが、どのような意味があるのか、ということは、『演秘』に答えられています。

 「答。二釈あり。一に云く。十二処に約すして、本識は意処の所摂なるが故に、内と為す。作意は法処なり、故に外と名くるなり。 二は唯、第八識の若しは種、若しは現は生ずる根本なるが故に、独り名けて内と為す。所余の諸縁は根本に非ざるが故に皆、名けて外と為す。論は後に依って説く」(『演秘』第六末・二左)

 内には阿頼耶識を種子とし、外には縁をまって生ずる、ということですね。縁は多いのです。前にも説明していますが、眼識は九縁の和合によって現前します。私が今ここに存在しているという事は衆縁が和合して「今、ここに」というご縁をいただいて存在しているのです。私の意思だけでは動かないのですね。条件が変われば、どのようにでも変わるということです。私たちは外の出来事について批判を繰り返しますが、縁をいただいていないだけのことで、縁が整えば人を千人殺すことも可能なのです。ただ人がよくて殺すという行為に及ばないということではないのです。よく考えてみる必要があります。


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