唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所・軽安について (3)

2013-08-09 22:36:38 | 心の構造について

 「惛沈を対治し依を転ずるを以て業と為す。」について、転依の業を解釈します。

 伏と除について、軽安の業を詳しく説明します。

 「謂く、此れが能く定を障うる法を伏除して、所依止をして転じて安適(あんじゃく)なら令むるが故に。」(『論』第六・六右)

 つまり、これ(軽安)がよく定を障碍するものを伏し、所依止(所依の身)を転じて、安適(安らかで快適であること。=安穏)ならしめるからである。

 「能く定を障うる」(よく定を障碍するもの)とは、煩悩と受の現行とその種子を指します。

 「有漏の者は伏す」と述べられていますが、有漏の軽安は定を障碍する惛沈や煩悩や受の現行を伏すと説明されています。伏するものではあるけれども、断じているものではない、要するに種子は断じていないということなのですね。「断」はですね、「無漏の者は除す」と。無漏の軽安について「断じ除く」といわれているのです。ですから、無漏の軽安について転依され、安穏という世界が開示されてくるということなのです。これは、安穏という世界が開かれてくるのは、転依がキーワードになるということなのですね。

 「論。謂此伏除至轉安適故 述曰。釋轉依業。有漏者伏無漏者除一切能障定法。此或煩惱。或是受數。但能障定即是所除。又今説此但是惛沈。令所依身轉去麁重得安隱故。」(『述記』第六本下・二十二右。大正43・438a)

 無漏は有漏の麤重を除く。有漏は煩悩の麤重を除く。重く厳しい教えですね。煩悩の習気そのものをも除くというところに、他力の教えの厳しさを伺うことができるようです。僕は、昨日の坊主バーでの座談のなかで、されげなく、自力は自分だけの世界、他力は他を認める世界であると眼を開かせていただきました。他力回向、これが無漏の現行なのですね。 (つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿