『述記』の記述
「述して曰く。転依の業を釈す。有漏の者は伏す。無漏の者は除す。一切能く定を障る法とは、此れは、或は煩悩或は是れ受の数(下劣障)なり。但だ能く定を障うるは即ち是れ所除なり。又今説く此れは但だ是れ惛沈なり、所依の身をして麤重を転去して安穏なるを得せ令むるが故に。」
軽安という心所の意味するところは、「軽」という言葉が言い表していますね。軽やか、という意味もありますし、軽快という快さという快活ですね。これが「麤重を遠離す」ることができるのですね。では何が重なのか、といいますと、煩悩なのですね、煩悩が心を支配して身心を束縛してくる、これが重くて暗い、安穏ならしめないのです。この煩悩が惛沈といわれるものなのです。心の深層で深く、重く、暗くのしかかっているのがこの煩悩なのですね。もう一つの掉挙という煩悩と並んで、止観行を障えます、即ち観察が起こらないのです、五念門の中の観察ですね、これが出来ない、起らないと云うことを教えています。
惛沈を所依とするのか、或はそれを転じて、所依の身を転依して軽安という善の心所に身を置くのかが問われているのでしょうね。私たちは本当は安穏になりたい、心が散乱麤動ではなく、いつも平静で有りたいと願っているのではないでしょうか。この願っていることに答えているのが軽安という心所なのではないでしょうか。
そしてですね、善の心所の最初の八は実法であるということです。心所固有の種子から生じた存在である、即ち自性を持つということになります。以下の不放逸は、この上に立てられた仮法ということになります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます