三国連太郎著 親鸞 『白い道』 スクリーンショット 「永劫の彼方へ葬り去られた 民衆の のたうち叫ぶ呪詛に満ちた 息づかいが地を這う 浄土を求めて止まなかった 民衆の現世 またの名を 彼らは憎悪をこめて “地獄” と呼んだー。」
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第二能変 標名門 (5) 第ニ・第三の解釈
次は第二の釈なり。
「又意という名のみを標せることは、心と識とに簡ばんが為なり。積集し了別すること、余の識より劣れるが故に。」(『論』第四・十二左)
(また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。)
八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)
積集(しゃくじゅう) - 蓄積すること。こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
以上のように第七識を “意” というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
次に第三に云く、
「或いは此れいい、彼の意識の與(ため)に近き所依たりということを顕さんと欲して、故(かれ)但意とのみ名づけたり。」(『論』第四・十二左)
(或いは第七識は、第六識のために近所依となるということを顕そうとして、ただ意とのみ名づけたのである。)
近所依の三条件
- 相順すること。 - 第六識と第七識は行相相順ずるからである。
- 計度すること。 - 第六識と第七識は計度分別すること同じである。過去・現在・未来に対して思い計り推量し執着を起こすことをいう。
- 與力 - 第六識が認識対象を認識する時は第七識が力を与えるのである。
「七が境を縁ずる時に第六いい力を与えるに非ざるなり。故に六には識有り七は但意と名づけたり。
第八も亦ぢ六に力を与えることを簡ばんとして、故に復近と言う。彼をば、遠き所依と為すべきが故に。五十一に第八有るに由るが故に末那有り、末那を依として意識転ずることを得と云へり。故に彼の第八をば遠き所依と為し、此れをば近き依と為す。」(『述記』第四末・五十一右)という。
以上で第一段 標名門(出能変体釈其名義)の説明が終わります。次からは第二段 所依門が説明されます。
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