goo blog サービス終了のお知らせ 

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (1)

2013-04-29 20:46:24 | 心の構造について

P1000774
 今日から、第三能変にもどります。

 善の心所について述べます。

 「唯だ善の心と倶なるを善の心所と名づく。謂く信と慚との等とき定めて十一有り。」(『論』第六・初右)

 善の心所には何があるのかを述べています。十一ある、と。内容は、

 信・慚・愧(き)・無貪・無瞋・無癡・勤(精進)・安(軽安)・不放逸・行捨・不害

 である。しかし、『頌』では「及」の一字が挿入されていて「述記」には「及の言は二有り、下に至ってまさに知るべし。」と、後に述べるといっています。下の所論は「及というは、十一より義別なる心所ありということを顕す、謂く、欣と厭との等き善の心所ぞ」と説明されていますが、この説明は後に譲ります。

 無貪・無瞋・無癡を三善根といい、それに反して、貪・瞋・癡を三不善根、或は三毒の根本煩悩といわれている。

 無貪・無瞋・無癡の三善根と勤によって行捨・不放逸・不害が分位仮立(分位に仮立されたもの)されることを示している。

 善の心所が立てられるのは、その正反対の心所(煩悩・随煩悩)を対治するためである。

 初は 「信」 についてです。

 「云何なるをか信と為す。実と徳と能との於に深く忍し楽して欲して、心を浄ならしむるを以て性と為す。」(『論』第六・初右)

 「信」とは「実と徳と能とに於いて深く忍し楽し欲して心をして浄ならしむるを以って性と為す。不信を対治し善を楽うを以って業と為す」と言われているように、不純なる私の中にも、不純なものばかりではなく、真実を知る欲求があるということなのです。

  1. 実有を信忍する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍・順忍・無生法忍のこと)『正信偈』には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
  2. 有徳を信楽する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
  3. 有力を信欲する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。

「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。

 私たちの根源的要求は私の根源からの求めてやまないものなのですね。その要求は「~の為に」といった功利的なものではないということでしょう。私のエゴはいつでも自分のために利用しようとします。仏法をも手段とするのです。しかし私はいったいどうなりたいのでしょうか。何を求めているのでしょうか。「仏道を習うとは自己を習うことだ。自己を習うとは自己を忘れることだ」とは道元の仰せであります。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在することはないのでしょう。そのような,さ迷ういの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。その入り口が「信」なのです。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿