『述記』及び『演秘』の説明。
「論。根力學支至非即心故 述曰。五根・五力・七覺・八道支中別説故。定非即心。如念・惠等。念・惠等法彼體是思。然非即心故以爲喩。此中比量如文可解。亦如正理論第十一廣闡 。」(『述記』第六本上・十六左。大正43・431a)
(「述して曰く。(因)五根・五力・七覚・八道支の中に別に説くが故に。(宗)定は即ち心に非ざるべし、(喩)念・慧等の如し。念・慧等の法は彼の体は是れ思なり。然るに即ち心には非ざるが故に、以て喩と為す。此の中の比量は文の如く解すべし。亦た正理論第十一に広く闡くが如し。私に云く、闡一本は闘に作る。」)
「論。根力覺支至非即心者。問破何計耶。若破本師本師心所皆體是心。惠等同喩所立不成。若破末計有相扶失。未許心所離心有故 答准疏所明破末計中立三四等心所之師。惠等依思非即心故。喩無其過。有義但破本計。然喩無過。前來成立惠等別有故得爲喩。又解彼宗以經爲量。説定即心餘別有體 詳曰。前雖屡言惠等心所。而未成立離心有體。何非喩過。又未見教經部師中唯不立定許餘心所。二釋倶難。故依疏善。」(『演秘』第五本・十六右。大正43・913a)
(「論に「根力覚支と云うより非即心と云うに至るは、
問。何の計をか破するなり。若し本師(経部の本師・鳩摩羅駄)を破すとせば、本師は皆、体是れ心なりと云う。慧等の同喩に所立不成あり。若し末計を破すとせば、相扶の失有り。未だ心所は心に離れて有と許さざるが故に。
答。疏の所明に准ぜば、末計の中に三・四等の心所を立つるの師を破す。慧等は思に依って即ち心には非ず、故に喩に其の過無し。
有る義は但だ本計を破す。然れども喩に過無し。前来に慧等は別に有りと成立す、故に喩と為すを得。
又解す、彼の宗は経を以て量と為して、定は即ち心なり、余は別に体有りと説くと云う。詳らかにして曰く、前に屡々慧等は心所と言うと雖も、而も未だ心を離れて体有りとは成立せず、何ぞ喩の過に非ざる。
又未だ教に経部師の中に唯だ定のみを立てずして余の心所を許すということを見ず。
二の釈倶に難じ、故に疏に依るは善なり。」)
別境 ・ 慧の心所について述べます。
「慧ノ心所ト云ハ、万ずズノ知ラント思ウ事ノ徳失ヲヨク簡ビ弁エテ疑ヲ除ク心也。是則チ智也。別境ノ五ト申ハ是な也」(慧の心所というのは、すべての知ろうと思うことが正しいか、正しくないかを選び、弁えて疑いを除く心である。)ー『法相二巻抄』
別境の五は、慧の心所についての説明です。三段に分かれます。(1)性と業について (2)前分の詳細 (3)他学派の説を論破、となります。
「云何なるをか慧と為す。所観の境の於に簡択(けんじゃく)するをもって性と為し、疑を断ずるをもって業と為す」(『論』)
『二巻抄』には慧の本質は「簡び弁えること」と看破しています。慧は所観の境(観じた対象)をはっきりとえらびわける働きをもって、本質的な働きとし、疑いを断ずることを具体的な働きとする心所である。
「述曰。これは勝慧を説く。故に断疑という。疑心と倶なるときにも、また慧あるが故に」(『述記』)
『述記』の説明は、「疑いを断ずる」という勝の慧から説かれていると言っています。ここには、勝慧がある一方、その反対である劣慧も有るという含みがだされています。疑いを断じないということ、それは逆に疑いに由って慧を妨害する作用が働くということになります。疑いを所縁として正見・正慧を簡びわけることができず、逆に悪見に顛倒していくということが具体的に働くということになり、慧の心所は勝(善)慧の立場から説いているということになります。
智慧の慧は聞慧・思慧・修慧といわれますように正しく聞き・思惟し修行することによって得られるものです。何が真実か不真実を選択して疑いを断ずる心なのです。その真実は清浄の業より起こり、そして仏事を荘厳するわけです。何が真実かということですが、私は答えはないと思うのです。「往生極楽の道を問う」ことが真実につながるのではないかと思います。私たちの知恵は疑心をもっているのですね。二心(ふたごころ)です。一心ではないのです。この知は愚痴の痴で病にかかっているという、我執と云う病です。私が一番で二番三番は無いのです。此れが私たちの知恵の本質です。「所観の境に於いて簡択(けんじゃく)するを以って性と為し。疑を断ずるを以って業と為す。」のが慧であるといわれているのです。過去のすべての経験を忘れていないというのが「念」でした。この念が定の依り処となり、その対象にむかって心を一つに集中していくのが「定」です。定が智の依り処となるのです。そしてどの方向に向いて歩みを進めているのか、善か悪かを択びわける働きが慧というわけです。これが煩悩を断じていくのであるといわれているのです。過去の経験を忘れていないということは何を意味するのかということです。その中に「生きていくことの意味」のヒントが隠されているということだと思います。過去の経験のなかを吟味して択ぶ、仏道の方向に向いているのかどうかを択ぶわけです。何故なら、私たちの目的は悔いのない生き方・空しく過ぎ行くことの無い人生・幸福な生き方を願っているわけでしょう。「終着駅は始発駅」と云う歌がありましたが、彼岸が私たちの故郷になるわけです。故郷を持たないと帰る場所が無いわけです。故郷喪失症に陥ります。故郷を回復する運動が念・定・慧という一連の流れに成るのではないでしょうか。
定から慧について
「定」といいますと、禅定という精神統一を思いますね。ある対象に向かって心を専注して乱れないということです。ここでも何を定と言うのかという問いが出されています。それに対し「所観の境に於いて。心を専注して不散ならしむるを以って性と為し。智の依たるを以って業と為す」といわれています。観は観察・境は対象、所観の境は観察しようとする対象・それに於いて心を留める、不散ということ、散乱しないことを本質とするということです。念を受けるかたちで、定がもたらされます。定は智慧の所依となるというのですね。智慧は真理を知るはたらきですね。智慧が生まれるのには念・定の心所が大切なのです。定に於いて心が浄化されるのです。浄化ということには本来に帰るという意味が込められています。「自性清浄心」といわれ、本来は清浄心なのですが、煩悩によって覆われているのですね。私の経験したことのすべてが今を生み出している、そのすべてが煩悩によって覆われているというわけです。「覆」ということに菩提心をおこすのです。煩悩と対峙するということです。そして心を浄化するということにつながっていくのですね。煩悩という心所はまた詳しく述べてまいりますが、例えば貪欲です。自分の欲望を満足させたいがために執念を燃やすということがありますね。目標一直線に心を集中させるということなのですが、これは定とはいわないのです。定に似て非なるものです。煩悩を翻すということに於いて真実を知る智が生まれるということなのです。「智の依」というのが「定」であるということ、大事に聞いていきたい心所です。「定」は心をひとつに留めて悪を作らない、浄を妨げる貪欲・慈悲を妨げる瞋恚・因縁を妨げる愚痴の煩悩を止となす、といわれています。大乗仏教では修行の階位としての止観行が最も大事なこととされているのです。「所観の境に於いて、心を専注する」ということですね。修行することによって柔軟心を成り立たせるということがいわれるのです。自己に執着する心が翻されて柔らかな、何事にも対応できるような心に転ずるというのです。
課題としては、『浄土論』に五念門を修して五功徳門が開かれるということです。五念門は礼拝・讃嘆・作願・観察・回向です。五功徳門は近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯門で前四門は安楽世界・浄土に入る功徳で第五門は利他・浄土より出て衆生を利する功徳であるといわれています。これを曇鸞は『論註』で釈しているのです。「定」ですね。作願・観察門に配当されて大切なことを教えてくださいました。「如来の名号及び彼の国土の名号は、能く一切の悪を止む。(名声功徳)彼の安楽土は三界の道に過ぎたり。若し人亦彼の国に生ずれば自然に身・口・意の三業の悪を止む。(清浄功徳)阿弥陀如来正覚住持の力をして、自然に声聞・僻支佛を求むる心を止む。(主功徳)」(真聖全P315)と。親鸞聖人はこれらのお言葉を大切にされ『教行信証』の中心課題とされ、また『入出二門偈』を著してくださいました。親鸞聖人の課題は従来の教・信・行・証という仏道の在り方に疑問を投げかけられたのです。「これでいいのか」ということです。教を信じ修行するところに果としての自利利他円満という証が得られるのか、という問題です。得証の問題です。これはわたしの課題でもあるわけです。「仏法は私一人のため」とどこでいえるのか。自利がどうして利他になるのか。現代流に問いますと、私ひとりの救いでいいのか、私ひとりが救われてそれでよしと言えるのかという問題です。こういう問題が今問われていないと思うのです。理としての教学はあるのでしょうが、生きてある教学というか、世に対して真宗は何を訴えているのかをはっきりとしなければならないと思うのです。逆に言うとですね、何も訴えていないから、別解・別行・異学・異見・異執・雑行・雑修にいいように扱われてしまうのではと思います。「五濁増のしるしには/この世の道俗ことごとく/外儀は仏教のすがたにて/内心外道を帰敬せり」(愚禿悲嘆述懐)とですね。仏教の姿を装う集団が一番怖いのですね。牙を隠していますから。いいように洗脳されますからね。私たちもサークルと云うか仲良し集団になってはいけないと思うのです。みんな仲良くというのが真宗ではありませんね。「念仏成仏是真宗」なのです。念仏を除いて成仏はあり得ないのです。選びがあるのです。「正定之業者即是称仏名称名必得生依仏本願故」(正定の業というは即ち是れ仏の名を称するなり。称名は必ず生を得。仏の本願に依るが故にと)、ここをもう一度はっきりとしなければならないのではないでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます