唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (8) 五位無心 (6)

2016-12-14 22:14:08 | 第三能変 第九・起滅...
  

   ― 染汚(ゼンマ)された意(マナス)の存在証明としての根拠 ―
 『摂大乗論』に「一切の時に我執は生起しており、善・悪・無記、すべての心の中に遍在している」という意識を見い出してきたのです。
 『摂大乗論』にマナスの記述と無想天に関する記述が述べられていますので紹介しておきます。「もろもろの存在は、ア―ラヤによって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識であるが故に、ア―ラヤと名づける」 このア―ラヤが「心」と呼ばれ、また「心・意・識」と呼ばれることもあると。
 そして、この「意」には、二種類あると説かれています。
 前滅の意
 「一つには、先に消滅した識を意とし、また、識の発生する根拠なので意とする。」
 染汚された意、
 二つめは、汚染された意で、常に四つの根本的な煩悩を伴っている。それは、(一)我見・(二)我慢・(三)我愛・(四)我癡である。この識は、他の煩悩の識の発生源である。この煩悩ある識は、第一の識を発生源として発生し、第二の識によって汚染される。
 外界を対象化し、それにしたがって順序に分別的認識をするようになるので、この二つを意と名づけるのです。
 ではですね、なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか、という問題が残ります。その理由が六つ述べられます。
 (1)もし、この心がないとすれば、独立して働く無明(独行無明)が存在すると言えなくなるからである。
 (2)五識と同質のこの存在がないことになる。何故かというと、この五識はどれもみな同時的に自分の依り所をもっている。いわゆる眼などの諸器官である。
 (3)また次に、意という名称に意味がなくなってしまうからである。
 (4)また次に、無想定と滅尽定との区別がなくなってしまう。何故かというと、無想定は汚染された心から現れるものであるが、滅尽定はそうではない。もし、そうでないとすれば、この二つの禅定に区別がなくなってしまうだろう。
 (5)また次に、無想天の一生には煩悩の流出がない(無流)という過失におちいる。汚染がないことになるのだから。その中では、我見や我慢などもないことになる。
 (6)また次に、一切の時に我執は生起しており、善・悪・無記、すべての心の中に遍在している。もし、そうでなければ、悪の心だけが我執などと対応することになり、我と我に所属する作用はそこでは生起しうるにしても、善と無記の中では生起しないことになる。それゆえ、善・無記と我執の二つの心が同時に生じることがあるとすれば、この矛盾がなくなる。我執は第六識と対応して生起するとしても、こうした矛盾が生じるだろう。
 根拠としての教証を挙げます。参考文献(出典は『摂大乗論』(正蔵31・114a19~b19)、原文を掲載します。
  先滅識爲意。又以識生依止爲意。二有染汚意。與四煩惱恒相應。一身見。二我慢。三我愛。四無明。此識是餘煩惱識依止。此煩惱識由一依止生。由第二染汚。由縁塵及次第能分別故。此二名意。云何得知有染汚心。若無此心獨行無明則不可説有。與五識相似此法應無。何以故。此五識共一時有自依止。謂眼等諸根。復次意名應無有義。復次無想定滅心定應無有異。何以故。無想定有染汚心。所顯滅心定不爾。若不爾此二定應不異。復次於無想天一 期。應成無流無失無染汚故。於中若無我見及我慢等。復次一切時中起我執遍善惡無記心中。若不如此。但惡心與我執等相應故。我及我所此或得行。於善無記中則不得行。若立二心同時生。3無此過失。若立與第六識相應行。有此過失 無獨行無明 及相似五識 二定無差別 意名無有義 無想無我執 一期生無流 善惡無記中 我執不應起 離汚心不有 二與三相違 無此一切處 我執不得生 證見眞實義 4或障令不起 恒行一切處 名獨行無明此心染汚故無記性攝。恒與四惑相應。譬如色無色界5惑。是有覆無記。此二界煩惱奢摩他所藏故。此心恒生不廢尋。第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生。(無著造・真諦訳)
 このマナスは、恒に生起しており、停止しない。(此心恒生不廢尋) この識の体はア―ラヤ識を離れては存在しえない。この故にア―ラヤ識から意が成立(ジョウリュウ)する。これに依って種子ができるので、他の識が発生することができる。(第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生)と説明されます。
 五位無心説を通じて、無心の底に流れる我の執着意識を明らかにし、第七・第八識の存在証明を初能変・第二能変に説き明かしているのです。 

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