「此の染汚の意は何れの受と相応す」をうけて答えられます。三師の説が述べられます。そして第三師の護法の説が正義とされます。
「有義は、之と倶には喜受のみ有り、恒に内に我と執じて喜愛を生ずるが故に。」(『論』第五・初右)
(有義(第一師)は、第七末那識と倶に五受の中の喜受のみがある、何故なら恒に内に我と執着して、喜愛を生じるからである。)
「我は既に欣の行なり、故に唯喜のみ倶なり。」(『述記』第五本・五十八右)
- 欣(ごん) - (1) よろこぶこと、楽しむこと。慼(しゃく)の対で、楽受と相応する心。 (2) 貪の異名としての欣 (3) 善心としての欣、善法欲をともなった、いかりや憎しみがない心をいう。
- 喜愛 - 愛着をおびた喜び。「喜愛と倶行するあらゆる期願は衆の苦の根本なり」
第一師の主張は、第七末那識は第八阿頼耶識を対象として我であると執して、その執を喜ぶ欣の行であるので、ただ喜愛とのみ相応する、という。第一師の説は第七末那識と相応するのはただ喜びのみである、と。「恒に内に我と執して」、自己愛ですね。自分が自分を愛しつづけているのが私という存在である、と。そうであるから、第七末那識と相応するのは喜受のみである、と主張します。
第二師の説
「有義は然らず。喜受は乃し有頂までに至ると許しぬべし。聖言に違しぬるが故に。」(『論』第五・初右)
(有義(第二師)は述べる。第一師の主張は間違いである、と。何故なら第一師の説の通りであるならば、喜受は第七末那識と倶に有頂に至るまで存在し、働かなくてはならないと承認しなければならない。承認するならば、聖言(『瑜伽論』巻第十一)に違背することになる。)
この科段は第一師を論破します。第一師の説であるならば、喜受は三界九地に通じて存在していることになる。このことを承認するならば、憂・苦も三界に通じて存在すると認めなければならない。『瑜伽論』巻第五十一には「那落迦等の中にて一向に苦受と倶に転ずるがごとく、是の如く下三静慮地に於いては一向に楽受と倶に転じ、第四静慮地乃至有頂に於いては一向に不苦不楽受と倶に転ずるなり。」と記述され、第七末那識と倶である受はただ喜受のみであるという主張は聖言と矛盾することになる。
「『論』に、聖言に違するが故にとは、即ち瑜伽の第十一に諸禅の受を出づることを説くに違す。疏に十二と云う二の字は誤りなり。」(『演秘』)
「此の四静慮を亦名づけて出諸受事と為すことを得、謂く初静慮にて憂根を出離し、第二静慮には苦根を出離し、第三静慮には喜根を出離し、第四静慮には楽根を出離し、無相(無学位)の中に於て捨根を出離す。・・・・・・また無相というは経の中に説いて無相心定と為す、此の定の中に於て捨根(有漏の捨根)永く滅す。唯但し随眠(有漏捨根の種子であり煩悩に縛られるので、仮に随眠と名づく)と彼の品の麤重とを害して余無く断ずるが故に、現纏(現行無漏の捨根であって、仮に現纏と名づく)を滅するに非ず。無相定に住するもの必ず受あるが故に、此の定の中に於て三受有るべし。謂く喜と楽と捨なり、彼の諸受随眠あることを得るに非ず。煩悩断ずるが故に説いて以て断と為し、彼の品の麤重を説いて随眠と名づく。又此の捨根は乃し何れの処まで至るや。まさに知るべし、始め第四静慮より乃し有頂に至る。」(『瑜伽論』巻第十一)
そして次科段において第二師が自らの主張を述べます。四の受と相応する、と。
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