唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩 懈怠(けだい) (1)

2015-12-01 22:40:09 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 懈怠(けだい)の心所について考究します。概略でも示しましたが懈怠は、
 「不信の者は懈怠多きが故に」といわれていました。不信は浄信を障えて惰を依所とするのですが、惰の依とは懈怠であるといわれているのです。『論』に「善・悪品の修し断ずる事の中に於いて懶惰(らんだー怠け怠ること)なるを以って性と為し。能く精進を障えて染を増するを以って業と為す。」いわゆる廃悪修善です。善を修し、悪を断ずる事の中にといわれますね。廃悪修善という事実の中に懶惰であるということが懈怠の性格なのです。懈怠が精進を障えるのです。それだけではなく染を増すといわれます。汚染です。汚れを増長するのです。「謂く懈怠の者は、染を滋長(じちょう)するが故に。諸の染の事に於いて策勤(さくごん)する者をも。亦懈怠と名づく。善法を退するが故に」ここは大変に面白いことがいわれますね。策勤(さくごん)は努力です。悪いことに対して努力をすることも懈怠であるというのです。これは大切なことを教えていますね。自己中心的に物事を観て自分の思い通りに努力することも、一生懸命ではないのですね。懈怠なのです。私たちは一生懸命に努力することは素晴らしいことだと思っていますが、真理からみると懈怠なのです。

 『論』では、先ず懈怠の性と業について説明されます。次いで、悪事や無記の事に対し策励(さくれい・努力すること)することも怠であることを明らかにする。初は性と業について説明さrます。
 「云何なるか懈怠なる。善・悪品の修し断ずる事の中に於て、懶惰(らんだー怠け怠ること)なるを以って性と為し。能く精進を障え染(ぜん)を増するを以って業と為す。謂く、懈怠の者は、染を滋長(じちょう)するが故に。」(『論』第六・二十九左)
 業の中に増というのは、滋長の義であると『述記』は釈しています。滋長とは養い育てることを云います。
 (どのようなものが懈怠の心所であるのか。それは、善品・悪品とを修し断ずる事に於て、懶惰であることを以て本質的な性として、よく精を障礙し、染法を養い育てて増大させることを以て業とする心所である。つまり、懈怠の者は染法を滋長するからである、と。)
 懶惰は、善品を修することに於いても、悪品を断ずることに対して怠けることを本質的な働きを持つ心所であると云っているのです。善も行わないし、悪も断じないという生活なんですね。いうなれば、善の心所の否定です。善の心所の否定は、自分の目先の利益の為に奔走している在り方なんでしょう。もっといえば、自分の世界だけの在り方ですが、このような在り方は自縄自縛なんですね。それは関係性を分断した在り方だからです。
 関係性を大切にすると、何故関係が壊れれるのか、通じ合わないのかという問いが生まれます。問いは「ものうき心」を破って答えを見出そうと努力(精進)をします。それを怠るというのは、すべてが自分の範疇の中に閉じ込めているからですね。閉じ込めると云うのは出口がありませんし、明かりが有りません。闇なんです。闇は知らず知らず恐怖心を生み出してきますから、ますます自分の殻に閉じこもることになります。懈怠のもっている意味には深い示唆があるように思えます。
 人と人が交わっていながら希薄な感じを受けるのは何故なんでしょうか。どうも自分が求めている理想とは逆方向にいるように思えますが、瞬間湯沸し沸騰なんでしょうね。私たち、本当に無空過(空過することのない)人生を求めているのでしょうか。
 居酒屋さんで、他の人の会話を耳にしますと、面白いです。仲間内では絶対的に自分たちの批判はしませんが、会話の殆どが他の批判に終始して話がはずんでいます。自分のエリヤ外は面白いんです。しかし、エリヤの中に入ってこられますと、血相が変わりますよ。私がそうだからよく分かります。私たちはこんな所で一生過ぎていくのでしょうか。「一生すぎやすし」気づいた時は遅いんでしょう。「俺の人生一体何だったのか」先人の遺言です。「お前は悔いのない人生を生きているか」、私たちはどのように答えていくのでしょう。争いをする為に、いのちを授かったのではないでしょうし、「生まれてきてくれてありがとう」と祝福されていたはずです。どこで、どう歯車が絡み合ったのか、そのこと一つを問う歩みが人間としての営みではないのかな、と思うことです。

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