唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (10) 

2012-04-29 19:34:36 | 『感の教学』 安田理深述

 「法性というのみでは如であっても来ということは出来ない、純粋意欲こそ従如来生である。静止的なる一如の法性は初めて如来如去の動的な原理となる。意欲の存在論的意義は、単に静止的なる一如の真理と区別される動的原理ということである。意欲ははたらく真理である。そしてその用きの他に実在はないのである。宿業を通して衆生を目さまし、その衆生を契機として無生の法性を、衆生のそこに生れそこに死することを得る国土として具体化する、超世界的な用らきが欲生我国と言いあらわされているのである。欲生こそ意欲する意欲であり、本願する本願である。この用らきが方便といわれるのであって、衆生がその内なる自性清浄の法性をもちつつ、しかもそれに帰ることを得ずして外に出ていたのは、その内なる自性の門を開く方法が見つからなかったためである。法性を無くしていたためではない、無となるのは法性とも自性とも言い得ぬからである。無性或いは不生の法性に生の門を開く方法がなかった、衆生の側から見つけることが出来なかったのである。門は外から開くこと出来ないからである。ここに法性の無性は衆生の生を契機として、自らを方法として限定してきたのが欲生我国であったのである。欲生が衆生をして我国なる無生の故郷に目ざましめたのである。この無生の門たる欲生が宗教そのもののはたらきをなすのである。即ち衆生を宗教的自覚として成就するのである。実は自覚存在としての衆生は、欲生我国の用らきによって本願内存在となったのである。宿業の衆生それ自身で既に感覚という機能を与えられているといえるのであるが、本より与えられているものが欲生によって自覚的に成就するということが出来る。自覚ということ無かったものが有るようになることではなくして、忘却していたものが再確認されることである。

 めざめるのは夢からめざめるのである、死から目ざめるのではないであろう。宿業によって生きている実存が、自覚的実存になったのである。その時その自覚存在は、目ざめしめた本願の内なる存在となったということが出来る。呼びかける本願の呼びかけによって、呼びかける本願の内におかれたのである。欲生によって宿業の衆生は、自らを如来の内に見出したことになる。これが自覚的に成就するの意義である。純粋なる感覚的自覚というものは、本願の内にあって本願を感覚的に自覚するのである。本願を外感するのでない。況や理知的に表象するのではない。欲生我国の呼びかけは、即ち衆生を宗教的自覚として成就したのである。あくまでも機能の成就である。ここに宿業の完成、本能の純化ということが出来る。宿業本能が消えたのでもなく、またもとのままというわけでもない、純化され完成されたのである。自己の内面の用らきによって内面に目ざめる感覚的自覚として完成されたのである。衆生がなくなっったのではなくて、衆生が純粋なる衆生となったのである。別言すれば宗教的自覚たる新人となったのである。智慧となったのである。世界内存在といわれる実存が、如来内存在の覚存となったのである。これが実存の廃棄でなくしてその成就ということが出来ると思うのであります。

 感覚という機能を逆転すれば機感である。衆生を成就するという意義は、この点からいえば機を成就するということである。機とは能力である。感知するという能力である。そして感は応と結びつけられる概念である、感応という、機は感知し法は応ずるというわけである。今日の言葉では呼応というところかと思います。われら衆生には本より感ずる能力が本能として与えられている、いのちあってのものだねとはこの感の能力である。いかに迷いによって苦悩している衆生であっても、そこに感知の能力が賦与されている、それが迷いの苦悩を脱する唯一の通路となるのである。ただ問題はその機能を純粋化するということである。折角与えられている感覚が雑染されている、理知の固執によって汚染されているのである。論理の道でなくして内観の道とは、即ち感の機能を快復することである。  (つづく) 

 お詫び、十回で配信する予定でしたが、来週が最終章になります。申し訳ありません。


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