唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受の心所について ・ 釈尊伝(76)

2010-08-09 22:52:51 | 心の構造について
 釈尊伝 (76)  自分を縛るもの その(8)死の予言
昔、熊谷蓮生坊という人が、“俺は何月何日に死ぬのだ”と予言したという話があります。何月何日に往生するというこら、人々が極楽往生を見にきた。ところがいっこうに死なないで、弟子たちが、どうなることかとハラハラしたのです。集まった以上、死んでもらわないと困ると。ところが熊谷蓮生坊は平気なものです。“今日は止めた”と、それだけで終わったというのです。みんなあきれてしまったというのです。だから、死のうと思ったけれども、今になったらやめたといえばおしまいです。しかしなかなか普通の者はいえないです。多くの人を集めたのだから義理にも死んでやらねばならないという気になります。それでこの次に死ぬといったら、誰も本当にせず、そのときは誰もこなかった。すると本当に死んだというのです。ですから、そう思うようになるなどということはないのです。つまり思うように死ぬということは、解脱の境地ですから、伝記にその人のさとったということを象徴するために書いたにすぎないのです。この人は何月何日に涅槃に入るといっておったと、みんな疑っていたと、ところがその日になったら衣を変えて、体を洗って、端座したままなくなったと。それはその人が仏法においてよくさとっていたということをあらわすための記録であって、みな事実を書いたように思いますけれども、事実として書いたのでは意味がないのです。それなら自殺したのとかわりないのです。普通の人間ならそんなことをして死んでも値打はないのです。やっぱり普通は死にそうになったら薬も飲んだり、医者にかかったりして生きておりたいというのが普通の人間ですから、何月何日に死ぬなんて、そんなことはなんの意味もないのです。意味があるとすれば、金もうけの目的のほかに考えられません。
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     第三能変 受の心所について述べる
 「受は能く順と違と中(ちゅう)との境を領納して、心等をして歓と慼(しゃく)と捨との相を起さ令む。心が起こる時随一無きことは無きが故に」(『論』)
 『述記』の記述も巻三で詳しく述べていますので、ここは簡略に記述されています。「歓等の三相を次の如く、順・違・中の三の境に配す。即ちこれ三受なり。余文は知るベし」と。
 この受の心所については、また巻三の記述に基づいて述べてみます。また『法相二巻抄』での良遍の領解は「受ノ心所ト云ハ、楽ヲモ苦ヲモ、心ノ中ノウレヘ悦ビヲモ、何ニモアラザル事ヲモ心ニウケトル心ナリ」と云われていました。『論』には「受とは謂く、順と違と倶非との境を領納するを以て性と為し、愛を起すを以て業と為す」と。「楽をも、苦をも」といわれていますように、私たちにはさまざまな感情があるのですが、その中で、楽と苦に関しての感情を受という、ということがわかります。三受・五受につきましては前に詳しく述べていますので、ここでは省略させていただきます。ただ大事な点は「愛をもって業となす」ということです。苦も楽も自我愛を生ずるということでは同じであるということです。苦からは逃れたい(違境)・楽からは離れたくない(順境)という愛執を起します。
 『述記』にはこの間の事情を簡潔に述べています。愛を起すを業とするのはなぜかと云う問いを出し「謂わく、楽受に於いて未だ得ざるときには合せんと希ひ、已に得するときには後乖離せざらんと云う欲あり、苦に於いては未だ得せざるには合せざらんとする欲あり。已に得たるが中には乖離せむと云う欲あり」と。
 第三能変では倶非を中といっていますが、中庸を得るという感情が大切であることを物語っているようです。中庸に於いて愛執から離れる事が出来るということを示唆しているからです。捨に三義有りといわれているのも頷けます。苦・楽・捨と言われる場合の“捨”(苦でも楽でもないという捨)・行捨の”捨”(平等・無功用という善の心)・煩悩の習気を総て捨てる場合の“捨”(煩悩との関わりを断っていくときの捨)、自分の中に捨という感情があるということ、これは大切に見て行かなければなりません。
 (意訳) 受は順境と違境と中境(倶非境)との境を領納して、心等に順境には歓(楽受)と、違境には慼(苦受)と中境には捨受の相を起させる。心が起こる時、歓と慼と捨等の中の(五受の中の)一つは必ず存在するのである。心が起こる時、即ち心王が生起し、働く時には必ず五受の中のどれかが遍するのであるから、受は遍行であるということがいえるのである。
 この中で云われる「随一」という意味は「多くの中の一つ」ということで、ここでは五受の中の一つと云う意味です。「領納」は自分の心の中にしっかりと受け止めることです。自分にとっての問題であり、他人事ではないということですね。大雑把にいってしまいますと、社会問題とか、環境問題ですね。自分を抜きにして、客観的にそれらの問題を考えてしまいますと、抽象論の始終するのではないでしょうか。今、高齢者の生存の問題が社会を揺るがせていますが、これも他人事として考えてしまいますと批判に終ってしまうのではないですか。環境問題でも同じことが言えると思います。今年は例年になく暑さが厳しいとですね。しかしこの暑さは毎年厳しくなるのではないでしょうか。道路はアスファルトで覆い尽くされ、エアコンはフル活動している状況ではエコも吹っ飛んでしまいます。しかし自分の問題として受け止める時にはエアコンなしで生活はできません。そうしましてら、問題の中心人物は“私”なのです。社会問題もですね。考えればネット社会では人と人との繋がりが遮断されていますし、人間関係を持ちたくない、独人でありたいという人が増えているようなのです。社会との関わりを断絶しながら生きていくというスタイルが徐徐に浸透しているといわれて久しいのですが、その問題が顕わにされたのが、今回の高齢者不在の問題に繋がるのではないでしょうか。やはり他人事ではないのですね。あなたはどうなのかが問われているのです。人事だと何でも言えるわけですが、自分の問題として受け止めるとそうはいかないのです。自分の心の中に“自分さえよければ”という愛執(我執)を白日のもとに晒し出さなければ問題の解決にはならないと思います。「弥陀五劫思惟の願をよくよく按ずれば、親鸞一人がためなりけり」という眼差しを要求されているのではないでしょうか。 
 

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