本科段より、五位無心に入ります。
「自下は第二に除生無想天等という下の三句の頌を解す。中に於いて初めに問、次に答、後に総料簡なり」(『述記』)
『頌』 第十六頌の下の三句を解釈する。初めに問いと答え後にまとめる。
「五位とは何ぞ」 ・ 「述曰。問なり、下を生ずるなり」
「無想に生ずる等なり」(『論』第七・十左) 「述曰。答えの中に三あり、初めに頌をあげて総じて答す。次に別に五を解す。後にこれを総結す。第二の頌の中、下の三句をあげて、以て所問に答す。「等」の言に摂するが故に」(『述記』第七本・五十三左)
(意訳) 「五位とは」という問いに対して、初めに「無想に生ずる等なり」と答え、次に五位の名を列挙して解釈する。後に(第三・総結)「斯の五の位を除いては意識恒に起こる」(『論』第七・十六右)結ぶ。二の無心定と無想天及び睡眠と悶絶の、この五を除いては第六意識は恒に起こる。何故ならば、第六意識が起こる縁は恒に備わっているからである。
意識が絶える時の説明です。それが五位無心だというわけです。初めに無想天を代表させて述べています。無想天では意識は働かないといわれています。色界の第四静慮天の第三の広果天の中にある高勝の依処で、此処に生じた有情は、五百大劫の間無心に住する分位をいう。対象が何であるかと知る知覚作用がない天で、六識が滅したところに仮にたてられたものであるとされます。そして何故、意識が働かないのか、その理由を五位に由って説明されます。
無想天の出典は、『倶舎論』巻二に「広果天の中に高勝処あり。中間静慮の如し、無想天と名づく」 説一切有部・経量部は色界第四禅天の広果天の一部としています。
この無想天とは、何を指すのでしょうか。次科段から『論』では非常に詳しく論じられていますが、私にとって無想天とは何かという問題です。端的に言えば、聞法から生じる信心の誤解、疑惑なのです。信心の私有化の問題です。私有化は仏智疑惑なのですね。
“仏智疑惑のつみにより
懈慢辺地にとまるなり
疑惑のつみのふかきゆえ
年歳劫数をふるととく”
“七宝の宮殿にうまれては
五百歳のとしをとしをへて
三宝を見聞せざるゆえ
有情利益はさらになし”
“辺地七宝の宮殿に
五百歳までいでずして
みずから過咎をなさしめて
もろもろの厄をうくるなり”
『正像末和讃』に親鸞聖人は述懐されていますが、まさにですね、「如来よりたまわりたる信心」の私有化(自力の信心)が、浄土をあこがれ、浄土に生まれたような錯覚を起し、七宝の宮殿に自らを閉じ込め三宝を見聞しない、このような状態を“無想天”といい現わしているのではないでしょうか。
「無想天とは、謂く彼の定を修して麤想を厭う力を以て。彼の天の中に生れて、不恒行の心と、及び心所とに違う。想を滅するを以て首と為す、無想天と名づく」(『論』第七・十左)
(意訳) 無想天とは、色界・第四静慮処の第三広果天(無想果)の中の高勝(有情の得る果報のうちで最も勝れた人の生まれるところ)の依処をいう。欲界の迷いを超えて色界に生ずる定の中の不苦不楽・捨・念・一心の四支よりなるのを第四静慮という。此処に生じた有情は、五百大劫の間無心に住する、この果報を指して無想天と名づける。(彼の定とは)無想定を修して無想天に生まれる。因として得られた果である。有情の類が前六識の麤想を生死の因と思い、それを厭う力を以て無想天に生まれて、前六識と及びそれに相応する心所とに違うのである。六識とそれに相応する心所が起こらないことを以て、無想天と名づく。
定については、別境の心所の定の項で述べていますが、定に二義あることについて述べてみます。
定とは「所観の境の於に心を専注して散ぜらしむるを以て性と為し、智が依たるを業と為す」といわれていました。
この定について二種ある。生得定(しょうとくじょう)と修得定(しゅとくじょう)です。生得定とは、前世の善業の力によって、生まれながらに得ている定の境地をいい、色界四禅天と無色界四定の八定地はこれにあたります。その対として修得定がいわれ、現世において段階的に修行をして得られる定をさします。これに無想定と滅尽定があるのです。
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