唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (18) 因縁依 護法の正義を述べる (2)

2011-02-01 22:49:17 | 心の構造について

    第二能変 所依門 (18)

 因縁依、護法等の正義を述べる。証を引く。

 「故に瑜伽に説かく、無常の法いい他性が與に因と為る。亦は後念の自性が與に因と為るという。是れ因縁の義なり」(『論』第四・十四右)

 (種子生現行が同時因果であるとどうしていえるのか、ということを論拠を引いて論証する。 - 故に『瑜伽論』巻五に説かれる、「無常の法は他性の為に因と為る」という。または「後念の自性の為に因と為る」という。これらは因縁の義である。つまり種子がすべて親因縁(直接の因縁)であることを述べているのです。)

 「二に証を引くなり。彼の論(『瑜伽論』)第五に種子の七義を説けり。現行を種に望めて不相似と名づく。或いは能縁有り、或いは礙と不礙との等あるを以て名づけて異類と為す。種子を自に望めては名づけて同類とす。」(『述記』第四末・六十四右)

『瑜伽論』巻第五(大正30・302b・08)の記述

 「又無常の法は無常の法の因と為るといえども、然も他性の與に因と為る。亦後の自性の與にも因と為れども、即ち此の刹那には非ず。」(又雖無常法爲無常法因。然與他性爲因。亦與後自性爲因。非即此刹那。)
 無常の法は無常という一般の解釈ではなく、ここでは種子を指す。何故ならば、諸法は有為転変する無常の法であるが、それを成り立たせているのが種子だからですね。無常の法が他性のために因と為りとは種子そのものを自性というのに対して、その種子より生じた現行の法を他性という。この種子と現行は同一刹那に於て種子は能生の因・現行は所生の果となる。因が果と倶に現在同刹那に有って倶に離れない種子を指し、これを種子生現行同時因果の果倶有法という。

 「亦後の自性の與にも因と為れども、即ち此の刹那には非ず。」とは、前念の種子が後念の種子のために因となる、ということを述べているのであって、種子生種子の因果関係を示しているのです。

    - 前文の内容を説明する -

 「自性という言は、種子の自類の前のを後のが因と為るということを顕す。他性という言は種と現行との互に因と為る義を顕す」(『論』第四・十四右)

 「無常の法は無常の法の因と為るといえども、然も他性の與に因と為る。」という『瑜伽論』の文は『論』には「無常の法は他性のために因となる」といい、「亦後の自性の與にも因と為れども、即ち此の刹那には非ず。」という文は「後念の自性のために因となる」と述べ、「この刹那ではない」という一文は省略されています。「後念の自性のために因となる」ということは、上にも説明していますが、種子が自類において前の種子が後の種子の因となることを示しているのです。種子そのものを自性と述べているのですね。ここは種子生種子を述べているのであり、種子生種子は異時因果であることを述べています。

 護法正義は種子生現行は同時因果であり、種子生種子は異時因果であると、この一文によって述べているのですが、同じ一文を難陀・最勝子は種子生現行・種子生種子ともに異時因果である一文と理解しているのです。 (両者の理解の相違は次回に考えて見ます。)

 

 

 


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