「彼と謂うは、謂く、即ち前の此れが所依の識ぞ。」(『論』第四・二十六左)
(「彼」というのは、つまり、前のこれ(第七識)の所依の識(第八識)である。)
「述して曰く、自下は別して釈す。中に於て二有り。初に総じて解し、後に別して争う。此れは即ち初なり。
所依の彼と云うは、初能変に彼す。所縁の彼というは此の第七が所依の識に彼す。意は所依は即ち是れ所縁なり。更に異の彼には非ずということを顕す。
何を以てが知るとならば、」(『述記』第五本・二十左)
初 - 第七識の所縁についてまとめて説明する。
後 - 第七識の所縁についての異説を争う(検討する)。
此れは初であり、はじめに本頌の意味を説明する。
第七識は何を縁じるのか、何を所縁とするのかという問題が生じてきますが、それに答えて、「彼」 を縁じるのだと。第七識の所縁は所依の識と同じく第八識である、と。
第七識の所依も所縁も第八識であるとはいえ、護法は、第七識の所縁となるのは第八識の見分であり、第七識の所依となるのは第八識自体分であると厳密に分けています。
存在の根拠は第八識自体分・阿頼耶識を所依とする。そして第八識の見分を所縁(認識されるもの)として自己存在が成立しているわけです。これは私たちが考えている認識の構造を根底から覆すものです。私たちは、というときの「私」は自他対立の構図から私を捉えています。そして私が存在するのだと。対立の構図から私を立てていこうとするわけですから、常に外堀を埋めることに奔走して苦しんでいるわけですね。しかし護法菩薩はですね、私たちが苦しんでいるのは、そうではないのだ、と。自らの根本識である第八阿頼耶識の見分(主観)を対象として自我愛を持つのだと。いわゆる我執です。第八阿頼耶識の見分を恒に執着しているわけです。苦しみの対象は自己の内側にあるんだというわけです。「碍は自にあり」と。
「何を以てが知るとならば」 という問がだされ、証拠を引用します。
「聖いい此の識は蔵識を縁ずと説けるが故に」(『論』第四・二十六左)
(聖教にはこの識(第七識)は蔵識(第八識)を縁じる、と説かれているからである。)
聖教に説かれているという聖教は、
『瑜伽論』巻第六十三(巻第五十一の誤りか)・『顕揚論』巻第一・『雑集論』巻第二等を指すといわれています。
「故に知んぬ此の識は自の所依を縁ずということを。此れは通じて解するなり。此れより下は争を叙す。争に四つの説有り。初は難陀等の義なり。」(『述記』第五本・二十一右)
『論』の本文解釈は「通じて解す」と説明がされていますが、これは第七識が第八識を所縁とするということだけを明らかにしているということです。後に護法正義を以て第七識が第八識のいかなる部分を所縁とするのかが明らかにされますが、この所縁とするかについて四つの異なった説が有り、この四つの説を論破して正義を示しているわけです。
『瑜伽論』巻第五十一に「縁阿頼耶識以為境界」(阿頼耶識を縁じて以て境界とし)
『顕揚論』巻第一に「意者・・・還縁彼識」(意というは・・・還って彼の識を縁じる)
『雑集論』巻第二に「意者、一切時縁阿頼耶識」(意は一切時に阿頼耶識を縁じ)
等を証拠として挙げています。
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