唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (45) 第五講 その(6) 最終講

2011-08-07 18:03:58 | 信心について

     『唯信鈔文意』に聞く (45)

         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「しかし、これが方便なんです。因より果に向かうというのが方便。衆生は、常識的にはこれでないとうなずかんからです。さしあたってまず自分がいま忙しくて、しかも苦しんでおる問題があるんだと。この苦しんでおる問題がどうしたら解けるかという場合に、これは利他では通らんのです。自分の利を求めておるのですから。その場合には、まず自分のこころというものを、こういうふうに持ちかえていくべきだとか、こんな気を起こしていくべきだとか、あるいはこういうふうに朝は早く起きるべきだとか、あるいは仕事の合間には、心を落ちつけるためにお守りをいただくべきだとかというようなことでしょう。

 そういうようなことで、まず自利からはじまるわけです。しかし、それが果たして成り立つのか。そのようなことが成り立つかというわけです。そういうことがどうして成り立つのか。理論的に求められたらですね、理論的には『法華経』にいうところの理論。一乗というところの理論です。一切の諸法はこれみな実相である。あるがままにみな仏なのだという、そういう理論から出せるわけですから、今日の創価学会でも、立正佼成会でもそういう意味においては、極めて大胆にご利益があるというわけです。朝晩、あるいは常日頃題目を唱えるならば、必ずご利益があるのだと。競馬に行っても、競輪に行っても題目を唱えるならば必ずもうかるんだと、こういうのです。そうするともうけたい一心で題目を唱えながら札なり馬券なりを買うんでしょう。やがて題目を唱えながら待っておりますと当たらん。当たらんでも、どうも嘘ではないかと思わんのです。当たらんのが当たり前ですから、別にそういうことはもともと思わんのです。当たったらご利益と喜ぶんです。当たったらご利益。当たらねばもともとで、本人はそう思って買うておるのです。一方でまた、競輪・競馬よりも、たとえば商売などですね、一生懸命にやった結果、商売はうまくいかなんだ、病気は治らなんだというときにはどうするか、というのがあります。けれども理論としては、それは治らないんだと思う方が悪いんだと、ちゃんといえるんです。「治らなんだとお前は思うておるけれども、治っておるんだ」と、こういうんです。「治っとるんだ」と。「でも、治っておりません」。「それは、お前の目から見れば、まだ治ったように見えんだけであって、本当はとうに治ってしもうておるんだ。病気も何もないんだ。それを、お前自身の心の業で、治らんと思うておるだけの話なんだ」と。ちゃんとうまいこといえるのです。「お前の心の業のなせるわざで、病気は治っておるけれども、心の方が苦しんでおるんだ。病気は治っておるんだぞ」と。そういわれたら治っておらんといえなくなってくるんです。「じゃその心の業はどうしたら治りますか」。「それは、これからもっと熱心にやらにゃいかん。もっと会員を増やして来にゃいかん。あと十人増やしてくれば、心の業も治って完全に病気は全快するんだ」と。これは、根本は『法華経』に説くところの諸法実相という原理です。この原理で押しまくるわけです。ですからいつでも迷信の原理になりやすいのです。

 それに対しまして、十七願の方はどこまでも仏力より衆生に働くところの道が仏陀の教えであると。したがってその仏陀の教えというものによって、仏道を我々は自覚できるのである。ここへ自利が出てくるんです。利他によって自利というものが立ってくるという、こういう行き方です。自利によって利他というものを進めるのに対して、利他によって自利が立つ。ですからこの場合の自利は自覚です。自覚というてよろしいのでございます。自覚という言葉ですが、「覚」という字は使わないで「信心」と、こういうふうにいわれております。したがって十七願も十八願も願が二つあると思いますけれども、願は一つなのです。願は一つであるけれども、信心を誓われた願としては、十八願としてお説きになり、それから行を誓われた願としては、十七願としてお説きになったと。なんでも十七願と十八願の二つの願を起こされたというふうに考えてしまった。これは文字の筋道だけを基礎としたからです。それが 「一乗大海の誓願」 という意味でございます。その意味で一乗という言葉は、宗祖は特に聖徳太子の教え、ともうしましても特に聖徳太子が真宗のことを教えられたというような、そういう文字の上で真宗のことを教えられたなどということをいわれるのではないのです。聖徳太子の教えられたことは、ただ残されたもので、書いたものだけでなく、その行積、あるいは仏教を受け取られた相は、やはりこの十七願をもとにして、そして仏教を人々に勧められたのであると、こういうふうにいただかれたわけであります。なにもお書きになったもののなかから、聖徳太子は本願を勧められたんだと言うようなことをおっしゃたわけではありません。『太子和讃』などを見ますと言うと 「聖徳皇のおあわれみに 護持養育たえずして 如来二種の回向に すすめいれしめおわします」  とありますが、別に 「如来二種の回向」 などということを聖徳太子はおっしゃったわけではありません。ありませんが、聖徳太子ご自身そのものが、仏教というものは、利他の教えであるということを自ら身をもって証明せられたのだ、と。こういうふうにご覧になったわけであります。

 いわゆる仏教ともうしますと、釈尊がインドにおいてお説きななった、それが中国・朝鮮・日本と伝わってきたと。こういうふうに考えるのが常識であります。ところが、宗祖によりますというと、十七願によって仏教はひろく伝わったのだという立場です。十七願がなかったならば、仏教というものは、どこにもなかったのだと。新興宗教なり、いろんな宗教となって出てきたけれども、仏教としては出なかったのだ、と。インドにはインドの宗教があり、ヨーロッパにはヨーロッパのキリスト教ありです。南方には回教あり、原始民族には原始民族の宗教ありです。未開の種族の中にもやはりなにがしかの宗教というものがあるのでしょう。そういうものとしてしか、仏教は出なかった。仏教がこの世にあらわれたということは、十七願によってあらわれたのであるということです。聖徳太子が仏教というものを取り上げられて、これを人々に勧められた。自らもこれに基づいて生活をせられたということは、十七願というものによって仏教とぴうものがひろまったからだということでございます。日本に仏教というものがすでに十七願によってあまねくひろまっておったのだ、と。こういう意味でございます。

 「十方世界普流行」 とありますように、十方世界に普く流行しておるというたのは、日本にも聖徳太子によって正しく仏教というものが興ってきたのだ、と。そういうわけですから、和国の教主といわれるわけです。釈尊と同じくご覧になるという。日本の釈尊だというような意味ではないです。日本の仏陀という意味です。釈尊を仏陀というのも、仏教を説かれたから仏陀であって、他のことで仏陀というわけではありません。釈尊は釈尊。偉い方は偉い方です。けれども教主といわれたときには、ちゃんと成仏せられておるということがあるわけでしょう。聖徳太子はやはり成仏せられておるのだという意味があるのです。それでなければ教主とはいわれません。何によって成仏せられたかというと、十七願によって成仏せられたのだ、と。十七願によって仏となって出世せられたのである、と。こういう意味になるわけです。

 そういう意味で 「一乗」 という言葉は、決してそういう経典によって決めたりするのではないのです。 『無量寿経』 というお経だからというのでもなにのです。ただ、この十七願というものがあって一乗ということが、具体的に利他の教えとして証明を受けられるということでございます。十七願がなかったならば、仏教も新興宗教も変わりはないのです。十七願一つあって真実の教と仰せになるのであります。まあ、こういう意味で 「一乗大海」 ということは、非常に大事なことでございますので、少し長くなりましたけれども申し上げておきたかったのであります。 (了)

 次回からは『浄土論註』の八番問答について「自己に背くもの」と題して講義をされました安田理深先生の講義録を学んでいきます。


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