豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」による大坂城の落城から400年。大阪市中央区の大阪城本丸広場で7日、「天下泰平の灯(ともしび)」として天守閣前に400個のあんどんが点灯された。大坂城は慶長20(1615)年5月7日(旧暦)に落城。戦乱の世に終わりを告げ、天下泰平の世が訪れるきっかけの日として大阪府や大阪市などが企画した。 (記事はAsahi digitalによる。) ![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2b/19/bb6169586eecc306b164a524a68cb83b_s.jpg)
瞋についての所論
「然も瞋は亦能く親しく滅道に迷う、彼を怖畏(フイ)するに由って憎嫉(ゾウシツ)を生ずるが故に。」(『御』第六・二十二右) しかも瞋は、またよく親しく(直接的に)滅道(滅諦・道諦)に迷うのである。何故ならば、滅諦・道諦を怖畏(おそれること)することによって憎嫉(にくみ、きらうこと)を生ずるからである。
前科段において、瞋は貪・慢・二取とともに、集諦・滅諦・道諦に於いて疎迷の煩悩であると説明してきましたが、特に瞋は滅諦と道諦に於いては、親しく迷う親迷の煩悩であることを明らかにし、その理由を説明しているのです。
「この意の顕さく、瞋は無漏を縁ずるが故に。滅・道の理に迷って生ずるが故に。苦集の理に瞋すること無きが故に。・・・」(『述記』)
何に由ってこういことが言えるのかと云いますと、瞋は無漏法を縁ずるからである、と。つまり、滅諦・道諦の理に迷って生起するからであるというわけです。滅諦や道諦という無漏法を怖畏することによって、憎嫉という、憎しみや嫉妬を起こすからなんですね。
「論には、唯無漏の諦理に迷うと説くのみにあらず、彼(瞋)は親しく二諦に迷って起こるに由るが故に。これより上は、皆五十八と同なり。」(『述記』)
『瑜伽論』巻第五十八には「(瞋恚は)謂く滅諦に於て怖畏の心を起こし、損害の心を起こし、恚悩の心を起こす。是の如き瞋恚は滅諦に迷うなり。・・・所余の貪等の道に迷う煩悩は、滅諦に迷う道理のごとく応に知るべし。」と説かれている。道諦に於いても、滅諦に迷う道理と同様に知るべきであると説かれているわけですね。これを受けて『論』には「瞋恚は滅道を憎嫉すと説けるを以て、亦離欲地(上界)をも憎嫉す応きが故に。」と説かれていたわけです。そうしますと、憎嫉の内容は、「損害の心を起こし、恚悩の心を起こす」ことなのですが、この心は理に迷って起こってくるんですね。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とう理に迷って生起してくるのが瞋恚という煩悩なんですね。その内実は、
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。」(『歎異抄』)
これが道理なんですね。道理に反逆した在り方を、邪見・憍慢の悪衆生と押さえられているのでしょう。瞋恚は起こそうと思って起きるものではないんですね。道理に反する、道理に迷うことに由って自然発生的に起ってくるわけです。逆にいえば、いかり・はらだちは、道理に迷っているという証しでもあるんです。ご縁の世界に生き切ることができない自分が見えてきます。
このような理由によって、瞋恚は直接的に滅諦・道諦に迷う煩悩であることが明らかにされたのです。
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瞋についての所論
「然も瞋は亦能く親しく滅道に迷う、彼を怖畏(フイ)するに由って憎嫉(ゾウシツ)を生ずるが故に。」(『御』第六・二十二右) しかも瞋は、またよく親しく(直接的に)滅道(滅諦・道諦)に迷うのである。何故ならば、滅諦・道諦を怖畏(おそれること)することによって憎嫉(にくみ、きらうこと)を生ずるからである。
前科段において、瞋は貪・慢・二取とともに、集諦・滅諦・道諦に於いて疎迷の煩悩であると説明してきましたが、特に瞋は滅諦と道諦に於いては、親しく迷う親迷の煩悩であることを明らかにし、その理由を説明しているのです。
「この意の顕さく、瞋は無漏を縁ずるが故に。滅・道の理に迷って生ずるが故に。苦集の理に瞋すること無きが故に。・・・」(『述記』)
何に由ってこういことが言えるのかと云いますと、瞋は無漏法を縁ずるからである、と。つまり、滅諦・道諦の理に迷って生起するからであるというわけです。滅諦や道諦という無漏法を怖畏することによって、憎嫉という、憎しみや嫉妬を起こすからなんですね。
「論には、唯無漏の諦理に迷うと説くのみにあらず、彼(瞋)は親しく二諦に迷って起こるに由るが故に。これより上は、皆五十八と同なり。」(『述記』)
『瑜伽論』巻第五十八には「(瞋恚は)謂く滅諦に於て怖畏の心を起こし、損害の心を起こし、恚悩の心を起こす。是の如き瞋恚は滅諦に迷うなり。・・・所余の貪等の道に迷う煩悩は、滅諦に迷う道理のごとく応に知るべし。」と説かれている。道諦に於いても、滅諦に迷う道理と同様に知るべきであると説かれているわけですね。これを受けて『論』には「瞋恚は滅道を憎嫉すと説けるを以て、亦離欲地(上界)をも憎嫉す応きが故に。」と説かれていたわけです。そうしますと、憎嫉の内容は、「損害の心を起こし、恚悩の心を起こす」ことなのですが、この心は理に迷って起こってくるんですね。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とう理に迷って生起してくるのが瞋恚という煩悩なんですね。その内実は、
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。」(『歎異抄』)
これが道理なんですね。道理に反逆した在り方を、邪見・憍慢の悪衆生と押さえられているのでしょう。瞋恚は起こそうと思って起きるものではないんですね。道理に反する、道理に迷うことに由って自然発生的に起ってくるわけです。逆にいえば、いかり・はらだちは、道理に迷っているという証しでもあるんです。ご縁の世界に生き切ることができない自分が見えてきます。
このような理由によって、瞋恚は直接的に滅諦・道諦に迷う煩悩であることが明らかにされたのです。
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