「論。云何行捨至靜住爲業 述曰。行者行蘊。行蘊中捨。簡受蘊中捨故置行言。非謂行也。亦以四法爲體。別正對治掉擧。體性靜住爲業。」(『述記』第六本下・二十五左。大正43・438c)
(「述して曰く。行は行蘊なり。行蘊の中の捨なり。受蘊の中の捨を簡ぶが故に行の言を置く。行ずと謂うには非ずなり。亦四法を以て体と為す。別しては正しく掉擧を対治す。体性は静住ならしむるを業と為す。」)
行捨は「捨」と表わされるが、受蘊の中の捨と区別する為に行捨と名づけらている。「行蘊の中の捨」である。
行捨の体は、精進・無貪等の三善根である。四法の作用の上に分位仮立されたもので、行捨は「掉擧を対治して、心を寂静に住ぜしめる。行捨を能対治として掉擧を対治(所対治)する心所である。
行蘊とは、有為を構成する五蘊の中の一つ。狭義では思を、広義では受と想とを除く他の四十九の心所と二十四の不相応行を含めて説明されています。
つまり、行捨は四法を体とする分位仮立法で、四法の持つ「心を平等に正直に無功用に住せ令むる」心所なのですね。
次科段は本科段の補足説明になります。初に行捨の体と業とを説明し、後に廃立を説明しています。廃立は排除と樹立という意味で、行捨は何を以て行捨なのかを補足説明しているのです。
「謂く、即ち四の法が、心に掉擧等の障りを遠離して静かに住せ令むるを捨と名づく。平等に正直に無功用に住せしむる、初と中と後との意に於いて捨の差別を弁ず。不放逸の、先ず雑染を除きつるに由って、捨いい復心を寂静にして住せ令むるなり。」(『論』第六・七右)
つまり、四法が、心から掉擧等の障碍を遠離させて、心を静かに住せしめる働きを捨と名づけるのである。
心を平等に、正直に、無功用に住せしめるのは、初と中と後との位において行捨の区別を述べたものである。
不放逸が、先ず雑染を除くことにおいて、捨は、また心を寂静にして住せしめるのである。
初 - 心を平等に
中 - 心を正直に
後 - 心を無功用に
という不連続の連続で生起することを述べているのですね。不放逸と行捨の関係性の問題も、不連続の連続であると理解してもいいのではないかと思います。解釈としては二通り考えられます。「不放逸が先ず雑染を除いてから後に行捨が働くと解釈すること。また一方では、同時性であるということ、不放逸と行捨が同時に働き、雑染を除き、心を寂静にさせる、というものです。
『述記』は、通障・別障で煩悩の障礙を説明しています。明日、『述記』本文を以て考えます。 (つづく)
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