「論。謂即四法至寂靜而住 述曰。下文有二。初正解體業。後解廢立。此初也。若通對治亦一切法。對法云由捨相應離沈沒等不平等性故。即擧通障。此擧別障 平等正直者。對法云。由捨與心倶離沈沒等。初心平等。遠離加行次心正直。於染無怯後無功用。廣如彼説。然諸論皆言。由不放逸斷諸惑已。此捨靜住不容雜染。謂如不逸是無間道。此捨是解脱道。解脱道中不容受雜染。此前後時別起勝用。或今所説此雖同時。同時不逸能除障已。捨令此心寂靜而住。義説前後。依此二用互増之時説其相也。此間據別障掉擧等取餘法。不同對法第十除貪愛。對法第一明通能治一切法也。」(『述記』第六本下・二十五左。大正43・438c28~439a13)
(「述して曰く。下の文に二有り。初に正しく体・業を解し、後に廃立を解す。此れは初なり。若し通じて亦一切の法を対治するは、『対法』に云く、捨と相応するに由る、沈没等の不平等の性を離れるが故に。即ち通障を挙げたり。此れは別障を挙げたり。
平等正直とは、『対法』に云く、捨と心と倶にして沈没等を離るるに由って初に心平等なり、加行を遠離するを次に心正直なり、染に於て怯(性)なく後に無功用なりと云へり。広くは彼に説くが如し。
然るに諸論に皆言く、不放逸は諸惑を断じ已るに由って、此の捨が静に住して、雑染なる容からず。謂く不(放)逸は是れ無間道なり。此の捨は是れ解脱道なるが如し。解脱道の中に雑染を容受せず。此の前後の時に別に勝用を起こす。
或は、今の説く所は此れは同時なりと雖も、同時の不(放)逸は能く障を除き已って、捨は此の心をして寂静にして住ぜ令む。義を以て前後と説く。此の二用が互いに増する時に依って、其の相を説くなり。此の間は別障の掉擧に據って余法を等取す。『対法』の第十に貪憂(或は、愛)を除くと云う、『対法』の第一に通じて能く一切の法を治すと明すには同じからずなり。」)
前後しますが、「掉擧等」の等は「余法を等取す」ということで、すべての煩悩が入ることを示しているのです。
「沈没等の不平等の性を離れるが故に。即ち通障を挙げたり。」と、心をして、高ぶったり、沈んだりと平静ではない状態を不平等といい、この不平等は、一切の煩悩に共通した障礙であり、これを通障といい、一つの煩悩独自の障礙を別障といいます。「不平等の性を遠離する」ことは通障として挙げているのですが、ここでは、行捨は掉擧を対治する別障として挙げているのですね。これを「別障の掉擧に據って余法を等取す」と説明しているのです。別障の掉擧によって、一切の煩悩がもっている不平等性を除去するという意味になるのではないかと思います。
尚、『演秘』には、
「論。初中復位辨捨差別者。顯平等三別之所以。故雜集第一云。心平等性者。謂以初中後位辨捨差別。所以者何。由捨與心相應離沈沒等不平等性故。最初證得心平等性。由心平等遠離加行自然相續故。次復證得心正直性。由心正直於諸雜染無怯慮故。最後證得心無功用住性。」(『演秘』第五本・二十四左。大正43・915a)
と説かれています。
(「論に、初・中・後との位において捨の差別を弁ずとは、平等の三別なる所以を顕わさんが故に、『雑集』(大正31・697c)の第一に、心平等性とは謂く初中後の位を以て捨の差別を弁ず。所以は何ん、捨は心と相応するに由りて沈没等の不平等の性を離るるが故に最初に心平等を証得す。心平等に由りて加行を遠離し、自然に相続するが故に次に復心正直性を証得す。心正直なるに由り、諸の雑染に於て怯慮無きが故に最後に心無功用住性を証得すと云えり。」)
行捨の働きが、初に「心平等」を証得する。次に「心正直性」を証得する。そして後に「心無功用住性」を証得するという順で連続して起こってくると説明されていますが、これは時間的経過を言うものではなく、あくまでも説明としてはこういうことであるということで、実際は同時因果の上に起ってくるものであると思います。
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