因能変は、第八識の中の等流と異熟の二因の習気でる。習気は種子のことです。現行を生じる因として、種子といわれます。果能変は、等流習気と異熟習気の力によって八識が現行する。即ち現行についていわれます。
しかし、習気が問題なのです。単なる種子ではないということです。種子が熏習される。種子は因・熏習は果でありますから、「第八識の中の」ということは因果同時に、現行熏種子ですね。現行されたものは果であるが、果が同時に現行の因となる。だから、因能変は因たる習気であるといえます。
等流は現行ですから、現行の七識中の善・悪・無記によって熏習され、生・長されたものになります。善・悪・無記の七転識の現行は、現行熏種子によって、必ず第八識に習気を熏習します。そして熏習されて生・長される。転変です。第八識を本識とし、七識が転変し現行する。現行したものは必ずその果としての種子を第八識に熏習する。元からあった種子を本有種子として、新たに七転識によって生じた種子、即ち新熏種子として、本有種子が熏習されることに於て増長される。本有種子が育まれるということですね。
異熟は、善悪業果で無記の業は除かれます。業種子についていわれます。
第八識中の種子 → (転変) →現行諸識の因である種子の転変 → 諸識の現行が成り立つ。 (因能変)
果能変は、種子の果である現行の識の転変です。二種の習気の力によって八識が現行し、現行すると、そこに種々の所変が現れることをいっています。「種々相」は所変、所変を現ずるものが能変ですから、果である現行を果能変とあらわしています。
次科段は、等流と異熟について料簡(リョウケン)されます。
今日は、復習をかねて再論しました。
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