『御伝抄』拝読のひとこまです。ダウンロードしてご覧ください。『御伝抄』は、報恩講の時に拝読されるのでご存知の方も多いと思います。一般のお寺では拝読されることは少なくなっているようですが、昨日は専立寺様で、『御伝抄』拝読のご縁に会させていただきました。親鸞聖人の御命日にあたる11月28日には、ご本山で拝読されています。本堂の照明をおとし、真っ暗の中、蝋燭の灯のもとで拝読される『御伝抄』は、儀式としてもとても厳かで味わい深いものです。一度その雰囲気を味わってみてください。『御伝抄』は真聖p724に『本願寺聖人伝絵』として記されています。覚如上人の作で、親鸞聖人の御生涯を上・下二巻で述べられています。昨日はその中、下巻を拝読されました。「浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。是空師の所為なるとて、忽ちに、罪科せらるべきよし、・・・」と承元の法難から「文永九年冬の比、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、同麓より猶西、吉水の北の辺に、遺骨を掘り渡して、仏閣をたて影像を安ず。此の時に当たりて、聖人相伝の宗義いよいよ興じ遺訓ますます盛りなること、頗る在世の昔に超えたり。・・・」と。聖人の恩徳を偲び、報恩感謝の営みを勤めるのが、真宗門徒の一年の中で一番大切な行事なのですね。法難といいましたが、聖人にとっては、法難という意味は、第三者的なものではなく、その意味は、「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」ことを通じて、浄土の真宗を明らかにする機縁になったのではないでしょうか。
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第三能変 別境 五受分別門 (2) 護法の正義を述べる
「有義は、一切の五受と相応す、論に、憂根は無上の法の於に思慕し愁慼(しゅうしゃく)して、求めて証せんと欲すと説けるが故に」(『論』第五・三十四左)
「述曰。第二師説。一切の五受と皆五は相応す。何を以て憂根は欲と倶なるや。瑜伽五十七。対法の第十に説く。憂根は無上の法に於いて、思慕して証せんと欲し、愁慼するに摂む所と云えり。即ち善法欲と憂と倶と云うなり。憂は余の時にも亦倶なることを得と証するなり(『述記』第六本上二十七左)
愁慼(しゅうしゃく) - うれいかなしむこと。
(意訳) 護法の正義が述べられます。第六意識に於いては、一切の五受は別境の心所である、五つの欲・勝解・念・定・慧と相応するのである。論『瑜伽論』巻五十七・『対法論』巻十に、「憂根は、無上の法に対して、思慕し、愁慼して、求めて、証明しようと欲する、と説かれているからである。
前の第一師の説は、欲は三受(楽受・喜受・捨受)と相応し、憂受や苦受とは相応しないということに対して、論書を以て論破し、証明しているのです。欲は善法欲といわれ、欲無減であるとも云われていました。ですから、五別境中の欲と、五受中の憂根とが倶に働いているという事が論に依って証明されている、というのです。また欲は可欣の境・可厭の境・中容の境のいずれをも対象とすることが欲の心所の所で述べられていました。
参考文献 『瑜伽論』巻五十七(大正30-618-c-02~04)
「憂云何。謂
30.0618c02: 於無上心生思慕。此中預流一來於一切
30.0618c03: 種皆圓滿。故建立憂根。若不還果雖有初
30.0618c04: 二餘二無故。不立憂根。唯善法欲」の文。
(憂とは云何。謂く無上に於て心に思慕を生ずるなり。此の中預流(よる)・一来(いちらい)は一切種に於て皆な円満するが故に憂根を建立し、若しくは不還果(ふげんか)には初めの二(希求・けぐ)ありと雖も、余の二(憂慼・うせき)無きが故に憂根を立てず、唯だ善法欲のみなり)
希求(けぐ) - ねがう・もとめる・欲する。「諸の衆生を悲愍するが故に大菩提を希求す」
憂慼(うせき) - 憂い
この項は安田理深選集・巻三p320~325をお読み下さい。
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