前の投稿では書ききれなかったが、「戦争孤児」の問題は、どうしても語らなければならない。戦後すぐの東京を御存じの方には常識だが、上野公園は浮浪児の巣窟だった。この作品にも、多くの浮浪児の映像が収録されている。
しかし、この浮浪児たちのその後については、わたしたちはあまり知識がない。しかも、よくよく考えて見れば、「戦争孤児」と「浮浪児」とどう違うのかも、判然としない。戦争孤児たちが積極的に語ろうとしなかった事もあるが、わたしたちの知識の無さ、知ろうともしなかった無関心が大きな要因だろう。しかも、事実を知れば知るほど、戦争孤児たちは、戦後の「棄民」そのものだった事が明らかである。戦争孤児の歴史は、彼らの高齢化とともに、戦後の闇の彼方に消え去ろうとしている。
「戦争孤児」とは、という研究がある。戦争孤児についての数すくない研究である。この研究に従って、「戦争孤児」について、少し書いてみたい。
http://www16.plala.or.jp/senso-koji/
まず、「戦争孤児」の定義:
・戦争に起因して孤児になったものを総称していいます。
例えば空襲、原爆などで、両親を殺された戦災孤児。外地からの引き揚げ中に孤児になった引揚孤児。焼け跡をさまよう棄迷児。空襲で両親が行方不明になった児童。戦争中、医薬品不足のため両親が病死した孤児などです。・・同上書
●戦争孤児の数⇒昭和23年2月1日の厚生省の「全国孤児一斉調査」では123、511人の戦争孤児がいた。その中で施設に収容された孤児の数⇒12、202人。⇒全孤児数の約1割。それも大半は、民間施設。
●残り9割(約十万人以上)の孤児はどうしたか。
(1)親族に引き取られる(戦後その多くは困窮)⇒邪魔者扱いや犬猫のように扱われたケースが多い。
(2)知人に引き取られる⇒同様な扱いを受けるケースが多い。
(3)養子縁組でもらわれる⇒戦後、男手不足のため、深刻な人手不足の現状を解消するために、ほとんどが安価な労働力(奴隷労働)として、酷い扱いを受けた。
※戦争孤児⇒圧倒的に小学生年代の子供が多かった。理由は明白。学童疎開で地方に分散している時に、大都市が空襲を受け、両親兄弟が死亡したケースが多かったからである。
※国の収容施設の圧倒的不足。ほとんど何もしていないに等しい孤児対策。上記の9割の孤児たちの酷い生育環境。⇒当然、自殺したり、逃げ出したりする子供が増えた。⇒住む家をなくした子供たち=「浮浪児」の増加と言う訳である。
上記の昭和23年の厚生省「戦争孤児調査」は、米軍のフラナガン神父の指摘で嫌々ながら厚生省が調査したもので、もし、神父の指摘がなかったら、何の調査もしなかった事は確実。しかも、この調査結果は、国の孤児対策、浮浪児対策に生かされなかった。⇒完全な「棄民政策」
これもまた現在の安倍政権下で、復活しつつある厭な官僚組織の伝統である。
◆孤児の種類と数
(1)戦災孤児⇒28、247人 (2)引き上げ孤児⇒11、351人
(3)一般孤児⇒81、266人 (4)棄迷児⇒2、647人
この中で、(3)の一般孤児とは、(1)(2)(4)以外の孤児と定義されているが、数が多すぎる。どうも、戦災孤児などの範疇に入るものを、一般孤児に入れている可能性が高い。
つまり、厚生省(旧内務省)は、意図的に戦争孤児や引き上げ孤児の数を少なく見積もり、国の責任を回避しようとした形跡が濃い。私は、当時の厚生省は、内務省から分割されたばかりであり、旧内務省の「寄らしむべき、知らしむべからず」という戦前の官僚意識が色濃く残っていたと思う。こういう調査をしたがらなかったのも、自らの責任回避意識が強かったと考えられる。
◆ 戦後は地獄の始まり
さて、ここからが本題である。最初に書いたように、「戦争孤児や浮浪児体験」を持つ人々は、戦後ずっと自らの「戦争孤児体験」や「浮浪児体験」を隠して生きてきた人が大半である。それは、広島原爆被爆者が、自らが被爆者である事を隠さなければならなかった酷い「差別体験」があったのと同じ構造である。
誰も好き好んで「戦争孤児」になったわけでもなく、誰も好き好んで「浮浪児」になったわけでもない。彼らが受けた「差別」の数々。この心の傷は、終生癒える事はない。
「何故、両親と一緒に死ねなかったのか。」学童疎開中に両親家族を失い、「戦争孤児」や「浮浪児」にならざるを得なかった人々が異口同音に語る言葉である。「リンゴの唄」に象徴されるように、戦後の青空は、自由と民主主義の象徴だと言う人も多いが、彼らから言わせれば、「戦後は地獄の始まりだった」と言う事になる。
私たちには分からない「戦争孤児」や「浮浪児」の悲惨な体験をいくばくかでも追体験できるドキュメンタリーが以下で見える。戦争で最大の犠牲を払うのは、いつの世も、女性・子供・高齢者の弱者である事が、改めて認識させられる。
※NNNドキュメント「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」
http://www.ntv.co.jp/program/detail/21839061.html
※戦争孤児たちの戦後史
https://www.youtube.com/watch?v=dAtzproL_KI
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
しかし、この浮浪児たちのその後については、わたしたちはあまり知識がない。しかも、よくよく考えて見れば、「戦争孤児」と「浮浪児」とどう違うのかも、判然としない。戦争孤児たちが積極的に語ろうとしなかった事もあるが、わたしたちの知識の無さ、知ろうともしなかった無関心が大きな要因だろう。しかも、事実を知れば知るほど、戦争孤児たちは、戦後の「棄民」そのものだった事が明らかである。戦争孤児の歴史は、彼らの高齢化とともに、戦後の闇の彼方に消え去ろうとしている。
「戦争孤児」とは、という研究がある。戦争孤児についての数すくない研究である。この研究に従って、「戦争孤児」について、少し書いてみたい。
http://www16.plala.or.jp/senso-koji/
まず、「戦争孤児」の定義:
・戦争に起因して孤児になったものを総称していいます。
例えば空襲、原爆などで、両親を殺された戦災孤児。外地からの引き揚げ中に孤児になった引揚孤児。焼け跡をさまよう棄迷児。空襲で両親が行方不明になった児童。戦争中、医薬品不足のため両親が病死した孤児などです。・・同上書
●戦争孤児の数⇒昭和23年2月1日の厚生省の「全国孤児一斉調査」では123、511人の戦争孤児がいた。その中で施設に収容された孤児の数⇒12、202人。⇒全孤児数の約1割。それも大半は、民間施設。
●残り9割(約十万人以上)の孤児はどうしたか。
(1)親族に引き取られる(戦後その多くは困窮)⇒邪魔者扱いや犬猫のように扱われたケースが多い。
(2)知人に引き取られる⇒同様な扱いを受けるケースが多い。
(3)養子縁組でもらわれる⇒戦後、男手不足のため、深刻な人手不足の現状を解消するために、ほとんどが安価な労働力(奴隷労働)として、酷い扱いを受けた。
※戦争孤児⇒圧倒的に小学生年代の子供が多かった。理由は明白。学童疎開で地方に分散している時に、大都市が空襲を受け、両親兄弟が死亡したケースが多かったからである。
※国の収容施設の圧倒的不足。ほとんど何もしていないに等しい孤児対策。上記の9割の孤児たちの酷い生育環境。⇒当然、自殺したり、逃げ出したりする子供が増えた。⇒住む家をなくした子供たち=「浮浪児」の増加と言う訳である。
上記の昭和23年の厚生省「戦争孤児調査」は、米軍のフラナガン神父の指摘で嫌々ながら厚生省が調査したもので、もし、神父の指摘がなかったら、何の調査もしなかった事は確実。しかも、この調査結果は、国の孤児対策、浮浪児対策に生かされなかった。⇒完全な「棄民政策」
これもまた現在の安倍政権下で、復活しつつある厭な官僚組織の伝統である。
◆孤児の種類と数
(1)戦災孤児⇒28、247人 (2)引き上げ孤児⇒11、351人
(3)一般孤児⇒81、266人 (4)棄迷児⇒2、647人
この中で、(3)の一般孤児とは、(1)(2)(4)以外の孤児と定義されているが、数が多すぎる。どうも、戦災孤児などの範疇に入るものを、一般孤児に入れている可能性が高い。
つまり、厚生省(旧内務省)は、意図的に戦争孤児や引き上げ孤児の数を少なく見積もり、国の責任を回避しようとした形跡が濃い。私は、当時の厚生省は、内務省から分割されたばかりであり、旧内務省の「寄らしむべき、知らしむべからず」という戦前の官僚意識が色濃く残っていたと思う。こういう調査をしたがらなかったのも、自らの責任回避意識が強かったと考えられる。
◆ 戦後は地獄の始まり
さて、ここからが本題である。最初に書いたように、「戦争孤児や浮浪児体験」を持つ人々は、戦後ずっと自らの「戦争孤児体験」や「浮浪児体験」を隠して生きてきた人が大半である。それは、広島原爆被爆者が、自らが被爆者である事を隠さなければならなかった酷い「差別体験」があったのと同じ構造である。
誰も好き好んで「戦争孤児」になったわけでもなく、誰も好き好んで「浮浪児」になったわけでもない。彼らが受けた「差別」の数々。この心の傷は、終生癒える事はない。
「何故、両親と一緒に死ねなかったのか。」学童疎開中に両親家族を失い、「戦争孤児」や「浮浪児」にならざるを得なかった人々が異口同音に語る言葉である。「リンゴの唄」に象徴されるように、戦後の青空は、自由と民主主義の象徴だと言う人も多いが、彼らから言わせれば、「戦後は地獄の始まりだった」と言う事になる。
私たちには分からない「戦争孤児」や「浮浪児」の悲惨な体験をいくばくかでも追体験できるドキュメンタリーが以下で見える。戦争で最大の犠牲を払うのは、いつの世も、女性・子供・高齢者の弱者である事が、改めて認識させられる。
※NNNドキュメント「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」
http://www.ntv.co.jp/program/detail/21839061.html
※戦争孤児たちの戦後史
https://www.youtube.com/watch?v=dAtzproL_KI
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
私は年金でほそぼそと暮らしているが、親の土地を最近、相続して、駐車場を経営している。駐車場の収入は、土地評価額の4%が相場である。2000万円の土地であれば、2000万の4%、つまり年80万円の収入になる。私が投資家であれば、1兆円を投資して、収入400億円を得たいと思う。
ところがタンス預金は何も産まない。タンス預金は愚かである。しかし、その愚かさには理由があったのである。戦後0年で日本政府は軍需物資の70%を隠匿(私物化)したと、nhkスペシャルでは報じていた。そんなことがあれば、日本人が政府を信用しないのも頷けれる。
明治維新後尾張藩は愛知県になった。尾張藩は薩長勢力に加担して早くから勤王であった。セコイ武士であれば、当然に出世を望む、しかし一人(田宮氏)を除いて全員が新政府に登用されることを拒んだ。権力でもなく、富でもなく、知を愛せという初代尾張藩主徳川義直の遺訓が生きていたのである。