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或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「新リア王」 (著:高村 薫)

2009-07-31 01:14:34 | 【書物】1点集中型
 続編「太陽を曳く馬」がすでに発刊になったのに、何を今ごろって話ですが。本当に今ごろ読みました。やっと。

 さて今回のストーリーは、北洋船を降りて仏家となって久しい福沢彰之と、政治家の実父・榮とのまるで禅問答のような長い長い語り合い。とはいえ、心を通わすというような心温まるものというよりは、お互いがお互いの歩みを語りあうというのがベースなんですけども。
 「母はひとり、自分もひとり」と結んだ「晴子情歌」では20代半ばだった彰之は、40歳を過ぎていました。しかも、「そんなへまをした覚えはない」と言っていたはずの「息子」を手元においている状態で。

 前作「晴子情歌」もそうでしたが、合田雄一郎主演3部作(若干語弊があるけど)に代表されるような高村作品とは一線を画しているので、正直なところ1回読んだだけでは咀嚼しきれません。政治周りの話も不勉強なので理解しきれてないし。って、それがわかっていながら図書館で借りたんですけど(笑)。そのうちちゃんと買って読みます……そのうち……
 と、そういう、粗筋も説明できないような半端な読み方の中で、それでも最後に榮が彰之に向けた一言は何故か、ふと視界が開けるように感覚になじみました。
 
 君は今度こそ子を捨てよ。父も捨てよ。そうして私と晴子がなした命一つを、私たちの代わりに仏という名の数千年の夢に費やせ。ぎゃあてぃぎゃあてぃの空に叩き込め。この四十一年、一度も私を父さんと呼んだこともない君ならば。

 この場合、「空」はやっぱり「くう」と読むべきでしょうか。物語の最後、衣を1枚ずつ脱ぎ捨てるように自らを取り巻く人々一人ずつに語りかけては去らせていた榮の、今まで世間的には実子として遇することのなかった彰之への言葉のクライマックスがこれでした。
 実は恥ずかしながら「リア王」読んでません。本当は、一度は目を通しておいた方が感じるものもあるんだろうけど……まだシェイクスピアにたどり着けてない。(笑)ただ、これが高村氏なりのリア王の姿なのかなぁとは感じました。

 つい先日、「新日曜美術館」で高村氏がロスコの画を見て「こういう小説を書きたいと思った」と語るのを聞きました。きっとだいぶ前からロスコはご存知だったんだろうと思うので、「晴子情歌」の時点からロスコを念頭に置いていたのか、この「新リア王」でなのか、はたまた3部作を締めくくる「太陽を曳く馬」に対してなのかはわかりませんが。
 でもその時、高村氏が描きたかったことがなんとなくだけど感じられたような気がしていた、あの榮の言葉の裏付けをもらったように思えました。何がどうという説明はしがたいんだけど、逆に言えばそれこそロスコだから。姿も形も定かでなく、しかしただそこに存在する、存在としての生命。
 だから、子を、父を捨てよという榮の言葉は、父でもなく子でもなく、ただひとつの生命としてそこに在れという言葉ではなかったかとも思うのです。自らは決して辿り着くことのない岸に、彰之ならば辿り着くのだろうと。もしかしたらそれを見届けることで、榮は晴子への愛をより確かなものにするのかもしれない。そうして彰之が父からも母からも自らを切り離してもなお、榮にとって彰之は限りなく息子であり続ける。

 彰之の息子・秋道がペンキを散らかした板壁の、絵ですらないのかもしれない赤や緑は、意味をもたない、意味が必要ないという点ではロスコが投影されていたのかもしれません(榮はバスキアのようだと言ったけれども)。そして私はその赤や緑と、「晴子情歌」で母・晴子の書き綴った言葉に出てきた、彰之の戸籍上の父・淳三の描いた「青い庭」との対比を思い浮かべました。それがどういう意味を持つのかは、まだ私には理解しきれていないけど。

 実は今日、「太陽を曳く馬」を本屋でちょっと最初だけぱらっとめくってみました。で、「雄一郎」の名を見つけて「あれっ?」と思いましたが、そういえばだいぶ前のどこかのインタビューで、「新リア王」の次の作品には雄一郎が出てくるとあったような……と思い出しました。つーか、よく見たら帯に書いてあったんだけど(笑)。
 ま、なんだかんだ言って雄一郎のキャラは好きでしたので、おかげで読みたい感倍増しました。彰之は、秋道は、そして雄一郎は、人間のどんな姿を見ることになるのか。俄然楽しみになってまいりましたよ。でも最初は図書館で借りよう……。

 そういえば「レディ・ジョーカー」は文庫版書かれないのでしょうかね。けっこう待ってるんですけども。(笑)