心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

梅雨の中休み

2015-06-27 22:25:22 | Weblog

 6月も残すところあと僅か。きょうは、伸び放題になった庭の木々を剪定したので、身体の節々が悲鳴をあげています。身体を労わるように、ベルガモットの花を摘んでお茶をいただいたり、庭中のハーブを集めて入浴剤にしたり。そんな1日でした。
 梅雨明けには、まだまだ日にちがかかりそうですが、7月に入れば夏も駆け足でやってくるのでしょう。そうこうするうちに8月になり、65歳になります。そこで今夏は、気分を一新するため、高野山夏季大学に参加することにしました。7月31日から2泊3日の日程で、宿坊に寝泊りして、識者のお話を聴いたり、阿字観(真言宗の瞑想法)を体験したり、大杉が林立する聖の世界を散策したり.....。
 ビジネススーツを脱ぎ捨てて、一期一会の出会いを楽しむ。千二百年の時空間を彷徨いながら、これからの生き方を考えます。きょうは松長有慶著「高野山」(岩波新書)をめくりながら、夜な夜な過ごしています。
 ところで、きょう近くのスーパーにお買い物に行ったら、不意に後ろから話しかけるお婆さんがいました。「おたくのワンチャン、お元気?」。振り向いても、面識がありません。聞けば、私がゴンタ爺さんと散歩している姿をよくご覧になっているのだと。少しベンチに座ってお話をしました。
 「うちのワンちゃん、16歳なんだけど、14歳頃から元気がなくなり、今はお散歩にも行けないの。腎不全で毎日、点滴を打っているの」と。「うちの犬と1歳しか違いませんね。まだ散歩には出かけていますが、以前に比べるとずいぶん弱くなりました」とお話すると、「そうでしょう。人間と一緒なのよ。私も同じよ」と.....。30分ほど話し込んでしまいました。ペットと人との共生。高齢社会にとってひとつのテーマかもしれません。
 最初から横道にそれてしまいましたが、先日の朝、バス停でバスを待っていると、道路の反対側の木立の中から鶯の鳴き声が聞こえてきました。春先の幼鳥とは全く違い、ときおりホーホケキョ、ケキョ、ケキョと「谷渡り」の技を交えながら、朗々と唄います。と、一瞬、静かになります。聴衆に「拍手が足りない」と無言の催促をしているご様子です。しばらくすると、またもや歌い始めます。しばし聞き惚れてしまいました。
 そうそう、昨日の朝、睡蓮の鉢を覗いてみると、まだ開花する様子はなし。が、お昼過ぎに家内から「睡蓮が咲いたよ」と写真付きのメールが届きました。帰宅したときは閉じていましたが、今朝もういちど覗いてみると、しっかりと花弁を広げていました。これを数日繰り返して束の間の世を楽しむのでしょうか。上の写真は家内がスマホで撮ったもの、下は私が今朝デジカメで撮ったものです。
 睡蓮。英名はWater lily と言います。睡蓮といえば、クロード・モネの絵を思い出しますが、花言葉は「清純な心」「信頼」「信仰」。英語では「purity of heart(清らかな心)」と言うのだそうです。
 萼(がく)が割れて真っ白い花弁が開き、その中央に黄色い雄しべが見えます。なんと清楚なお姿であることか。今夏はいくつ開花してくれるのでしょう。鉢の中には、白色と桃色の二種類植えています。何年も咲くことのなかった睡蓮が、我が家の鉢の中でやっと花開きました。梅雨の鬱陶しさもどこかに飛んでいってしまいました。
 きょうは久しぶりにLPレコードを聴きながらのブログ更新でした。取り出したのはマルタ・アルゲリッチが奏でる「トッカータ」と「パルティータ」、そして「イギリス組曲」です。いずれもバッハの作品ですが、同じ曲を私はグレン・グールドの演奏でなんども聴いています。
 このLP、1979年2月にベルリンで録音したものですから、LP時代晩年のものになります。あの頃、あっという間にCDに変わったことを覚えています。社会人になって10年も経っていない頃のことでした。でも、最近、LPへの郷愁、回帰現象がみられます。

<番外編>

何気なくネットを彷徨っていたら、「心の風景」の中国語バージョンを発見しました。おそらく機械翻訳でしょうから、正確な中国語ではないにしても、昨年2月14日の記事「小雨の中を能楽堂に行く」が翻訳されていました。翻訳までしてお読みいただくような代物ではございません。ご迷惑をおかけしております。m(_ _)m

 

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嬉しい再会

2015-06-20 22:54:27 | Weblog

  「気候」という言葉は、1年を24等分に区切った二十四節気の「気」と、それをさらに三等分した七十二候の「候」から生まれたのだそうです。七十二候を紐解きながら、四季の移り変わりに対する昔人の感性を思います。明後日の6月22日は、1年で昼間が最も長く、夜が短い「夏至」です。
 このところ、仕事関係の本に目を通すことが多かったのですが、それもひと段落したので、昨夜から清少納言の「枕草子」(角川ソフィア文庫ビギナーズクラシックス)を読み始めました。春は曙、で始まるこの世界、身体全身で季節の移ろいを追う昔人の感性が、一千年の時を経て活き活きと蘇ってきます。
 そうそう、先週、孫君がやってきたとき、ブルーベリーを収穫しました。ついでに胡瓜の初物も。孫君、それをもって嬉しそうにバスに乗ってお帰りになりました。あと1週間もすればピーマンやトマトも収穫できるかもしれません。そのあと、ゴーヤ、トウモロコシ、オクラなどと続きます。
 ところで、けさ仕事に出かけるとき、スイレンの鉢を覗いて驚きました。青々と茂った葉っぱの下に花芽を見つけました。水面まであと10センチ。ところが夕刻帰宅してもう一度覗いてみると、蕾の先端が微かに水面に見えます。この成長度合いはなんでしょう。開花は意外と早いのかもしれません。何年も待ち続けたスイレンの花を、やっと今年愛でることができそうです。
 きょうは、クラシックプレミアム38巻「ヴァイオリン・チェロ名曲集」を聴きながらのブログ更新です。表紙は、チェロ奏者のミッシャ・マイスキーです。このCDでは、カタロニア民謡「鳥の歌」を演奏しています。チェロの音色が疲れた心にしみます。
 それにしても今週は、あっという間に週末を迎えました。イライラしたこともありました。悩ましい問題もありました。老若男女さまざまな方々との出会いもありました。先日は、一人の青年に出会いました。10年ほど前だったでしょうか。就職して1年目の彼から退職したいとの申し出がありました。活躍を期待していた一人でしたが、我が社の水が合わなかったのでしょう。やむなくお別れをしました。その彼と、先日、お勉強会でばったり出会いました。夜9時から始まった懇親会の席で、彼は私に近づいてきました。乾杯の発声役を仰せつかったので、私の存在に気づいたのでしょう。一段と成長した彼から近況を伺いました。
 その翌日、彼からメールが届きました。「昨夜は、お話をする機会を頂戴いたしまして、ありがとうございました。退職した立場にも関わらず暖かくご対応くださり感謝申し上げます。小生が今日あるのは、御社での業務経験にあるといっても過言ではございません。それを誇りに思いつつ、益々精進して参る所存でございます」と。ひと回りもふた回りも成長した彼に出会えたことは、ほんとうに嬉しいことでした。この歳になると、我が社であろうとなかろうと、若い方々の「熱い心」に接するのが一番の喜びです。 
 考えてみると、私と共に成長した若い方々の多くは、どちらかといえば我が社の枠をはみ出し気味の者が多い。そのぶん、出る杭は打たれる傾向があったかもしれません。何人かは飛び出していきました。めげずに大きな仕事をやり遂げた者もいれば、躓いた者もいました。でも、みんな一生懸命でした。それでよいのです。躓く者には温かい手を差し伸べるのも私の役目。言うほど綺麗事の話ではありませんが、人生、人それぞれ。紆余曲折はつきものです。と言いながら、若い方々と毎日楽しく仕事ができている私は恵まれているということなんでしょうよ。きっと。 

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堂島のWALTY Classical(旧ワルツ堂)さん、当面休業

2015-06-14 00:02:04 | Weblog

 「店主入院加療の為、当面休業させて頂きます。再開の目処が立ちましたら、シャッター面告知、留守電メッセージにて改めてお知らせ致します。大変ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願い致します」。
 先日、大阪駅前第1ビルの地下街を歩いていると、WALTY Classicalさんのシャッターに、「重要なお知らせ」と題するこんな貼り紙がありました。お店を移転して何年経ったのでしょうか、まさに都会のオアシスになっていたワルティーさんです。残念なことです。

 このシャッター告知には、お店再開の予定を尋ねるお客のメッセージがふたつ。それに対するワルティーさんのお答えは「現時点では全く未定です」と。相当お悪いのでしょうか。いつものように店先の椅子に座って商品の整理をされていたご主人の、一日も早いご回復とお店の再開を願わずにはいられません。
 堂島地下の、今のお店より何倍も広い旧ワルツ堂からのお付き合いです。仕事帰りによく立ち寄っていました。当時は、新品のCDがメインで、クラシックからジャズまで幅広い品ぞろえが魅力でした。閉店バーゲンセールでは、両手にかかえるほどのCDを買って帰ったものです。その後、店の前を通るのが辛くて遠回りすることが多かったのですが、いつ頃だったか別の地下街を歩いていて、ふと現在のお店に再会しました。
 きょうは、1ヶ月ほど前にワルティさんで買った、マルタ・アルゲリッチの「ショパン・リサイタル」を聞きながらのブログ更新ですが、そのアルゲリッチについて、6月11日付き読売新聞は「天衣無縫の音楽奏でる指 ピアニスト マルタ・アルゲリッチ」と題する特集記事を掲載しました。
 今年の「別府アルゲリッチ音楽祭」では、チェロ奏者のミッシャ・マイスキーと、ショスタコービッチの「チェロ・ソナタ」を共演したのだとか。写真説明には「今は若い時より忙しい。弾くのは嫌じゃないけれど忙しすぎる。もっと時間がほしい」というアルゲリッチのコメントが添えてありました。
 ところで、話は変わりますが、今週は週の初め、東京は渋谷に出張しました。渋谷の街に詳しくなかったので、目標の会社に到達するのに少し戸惑いました。どうやら千駄ケ谷の方に迷いこんだようです。その際、街中に鳩森八幡宮という神社を見つけたので、お賽銭を供えて参拝しました。境内には、富士山を模した小さな「千駄ヶ谷の富士塚」(1789年築造)がありました。
 この日の出張は、30代後半の若いながら新しい事業に挑戦している男性にお会いするのが目的でしたが、30年早く彼にあっていたら私の人生、随分違っていただろうなあと思うほど、素敵な出会いをいただきました。これも、鳩森八幡宮のご利益かも。
 さてさて、6月第二週目の土曜休日は、我が家に新しいメンバーをお迎えしました。そう、次男くんがお嫁さん候補を連れて帰ってきたのです。歳甲斐もなく、朝からそわそわ。庭掃除をすませると、散髪屋さんで身繕い。昼前には長女一家も孫君たちを連れてやってきました。そんな休日の昼下がり来客をお迎えしました。同じ会社で、翻訳や通訳の仕事をしている素敵なお嬢さんでした。ついこの間まで、甘ったれの次男くんが、なんとも大人にみえてくるから不思議です。これまで理系人間ばかりだった我が家に文系人間が加わり、私にとっては援軍を得た気持ちです。家内とも話が合いそうで、ひと安心でした。
 総勢8名様。近所のレストランで楽しい食事会を催しましたが、今夜は孫長男くんが一人残って久しぶりのお泊りです。明日の朝は、ブルーベリーの実を摘んで食卓に添えることにいたしましょう。

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京都・岡崎で能楽を楽しむ

2015-06-07 00:44:21 | Weblog

 6月に入ると梅雨入り宣言が気になりますが、我が家の庭ではハーブの一種ベルガモットが開花し始めました。先週種蒔きをしたばかりの向日葵が元気に芽を出し、きゅうりやトマト、メロンが小さな実をつけ始めています。ほんの僅かな変化が、心を楽しませてくれます。
 さて、土曜休日の朝、少し遅めに起きると、家内いわく「これから、京都に能を見に行かない」と。このひと言で一日の予定が決まりました。京都・岡崎にある京都観世会館の浦田定期能です。さっそく電話をいれて当日券の有無を確認すると、午前11時20分の開場めざして飛び出しました。会館は京阪電車三条駅から歩いて15分のところにありました。近くには、美術館や平安神宮があります。

 この日の曲目は「隅田川」と「融」でした。その間に、仕舞と狂言「水掛聟」があります。正午に始まった公演は、休憩を挟んで延々5時間におよびました。久しぶりの能楽鑑賞でしたが、現実と非現実が行き交う不思議な世界です。ワキ(旅の僧)とシテ(亡霊=今は亡き狂女や融の大臣)のやり取りを通じて、人の本性、情念のようなものが、単純化された舞台の中で表現されていきます。異次元の空間に身をおいて、硬直化した脳味噌を柔らかく解きほぐしてくれる時間を楽しみました。
 「隅田川」は、伊勢物語第九段「東下り」で知られた隅田川の世界を背景に、我が子を尋ねて物狂いとなった母親の悲嘆を描いた名曲です。「融」は、源融(とおる)の大臣(おとど)が六条河原院の庭園でかつて塩を焼いていたことを思いつつ時代の変遷を嘆き悲しみます。こちらは古今和歌集や今昔物語に登場するお話です。そして、この2曲の間に演じられる狂言が、ふたつの曲の場面転換に独自の存在感を示します。狂言の意味を再発見いたしました。
 この日は正面前列の2列目に陣取ったため、能面を被った演者の動作を目の前で見ることができました。見る、というよりも、対峙する、と言ったほうが良いのかもしれません。心地よい緊張感をもって能を楽しむことができました。こうした日本の伝統芸能が、中世のルネッサンスの時代よりも前に、東洋の島国で演じられていたと思うと驚きです。
 帰り際に、同志社大学文学部国文学科の「伝統文化継承者特別入学試験」のパンフレットが目にとまりました。この日も、若い演者の姿を多数見かけましたが、単に伝統文化を守るということではなく、能楽そのものを極める、そんな空気を体感しました。パンフレットには「感性を 品格を 人格を 己を磨く」とありました。
 ところで、お「能」といえば、先日、「脳」ドックの診断結果が送られてきました。予想どおり若干の指摘があって経過観察ということでしたが、今すぐに何かをしなければならないといった状況でもなさそうでした。これに対して家内の方は、病院からお呼び出しがあって、急きょ精密検査をすることになりました。でも、専門医の一回目の診断は「大丈夫だろう」とのことなので楽観しています。
 ひょっとしたら、急な能楽鑑賞の裏には、そんな嬉しくない気分を振り払おうという意味合いもあったのかもしれません。週末の京都の夜を楽しんで帰りました。

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