心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

気ままな晩春の休日

2014-04-26 23:28:57 | 古本フェア

 晴れやかな朝を迎えました。4月も下旬、いよいよゴールデンウィークの幕開けです。と言っても、私は暦どおりです.....。この季節、七十二候では牡丹の花が咲く「牡丹華」と言うのだそうです。晩春に華麗に咲き誇る花の王者という形容詞がつきますが、今朝、鶯の鳴き声を聞きながら愛犬ゴンタとお散歩をしていたら、ご近所の庭先に牡丹の花が満開でした。そして我が家に戻ると、木陰につるした蘭が可愛い花を咲かせていました。草むらの奥ではヤマブキの花がひっそりと花開いておりました。
 トピックスを二つ。まず一つ目。夏目漱石の「こころ」が4月20日から朝日新聞に掲載されています。作品「こころ」が紙面に登場したのが大正3年4月20日だったからなんでしょう。以後、夜ごと寝る前に目を通すのが日課になっています。かつて読んだ日のことを思い出しながら、しかし時代が変わっても人の心に大きな変化はなく、時代を超えた小説なんだろうと妙に納得した次第。
 二つ目は、玉岡かおるさんの小説「お家さん」が読売テレビ開局55周年記念ドラマとして5月9日に放映されること。玉岡さんのブログで知りました。この作品は、明治から昭和初期にかけて神戸の経済界を牽引した鈴木商店の盛衰を、一人の女性と彼女を支えた男の生き様を追いながら表現しようとした意欲作です。文庫本で全2巻のボリュームですが、ドラマの方は1回限りの特別番組のようですから、どこかに的を絞っての展開になるのだろうと思います。玉岡さんの小説「銀のみち一条」に触発されて、銀の馬車道ウォーク(「生野銀山から生野峠まで)に参加したのは昨秋のことでした。この単純さにあきれながら、しかし玉岡小説に拘っています。

 さて、今日の土曜休日は「第12回四天王寺春の大古本祭り」を覗いてきました。手にしたのは新潮日本古典集成「世阿弥芸術論集」でした。世阿弥の芸術論を注釈を頼りに原文で読みとろうと手にしました。難解な表現には文字の横に朱書きが施されているのが気に入りました。5月に入ると京都市勧業館みやこめっせで「春の古書大即売会」があります。初老の私にとっては嬉しい時期となりました。
 その後、久しぶりに長女の家に立ち寄り、孫君たちにご対面でありました。4月1日に小学1年生になった長男君、20日に2歳の誕生日を迎えたばかりの次男君。ずいぶんと大きくなりました。中華料理店で円卓を囲んだ楽しい夕食会を催しましたが、二人とも黙々と食べていました。私の子供たちは食が細かったのに、孫君たちの食べっぷりは見ていて楽しいものでした。ゴールデンウィークに、京都市立動物園に連れて行く約束をして別れました。

 ということで、連休初日はあっという間に終わりました。明日の日曜日は、同業他社の初老の仲間たち20名ほどで灘の酒蔵巡りに出かけます。たっぷりと美味しいお酒をいただいてきます。そういえば、ここ1カ月、公私共に”呑み二ケーション”の機会が増えていて、体重も増えてきました。5月の中旬には病院に行く予定ですが、これでは通院している意味がありません。そろそろ摂生しなければならないと思いながら、さあてこの先どうなることやら。

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年々去来の花

2014-04-20 09:05:40 | Weblog

  ちょっとした環境の変化が心のリズムを狂わせます。4月に入って仕事に少し変化があったためか、目を通す本の種類がビジネスに偏り過ぎていて、何とも無味乾燥な時間が流れています。ならば夜こそは思いますが、ベッドに横になった途端眠ってしまいます。健康的なのか不健康なのか良く判りませんが、そのまま朝までぐっすりとお眠りです。
 そんな週末、冬の頃に読みかけたまま枕元に閉じていた新潮文庫「西行」(白洲正子著)を手にとりました。栞紐を挟んだページを開いてみると、「法金剛院にて」の項で止まっています。

なにとなく芹と聞くこそあはれなり
摘みけん人の心知られて

 何となく芹というのは哀れなものである。それを摘んだ人の心が思いやられて、というだけのことであるが、却ってこのような軽い調べの奥に、西行の本心がうかがえる、とあります。その昔、芹を召し上がっている后の姿を垣間見た身分の低い男が、后に思いを寄せて毎日のように芹を摘んでは御簾の傍らに置いていたが、適わぬ恋に患い死んでしまった。そんな逸話から、「芹を摘む」という言葉は物事が適わない意味を現すようになったそうです。
 子供の頃、早春の季節に、三つ年上の姉に連れられて芹摘みに行ったことがありました。雪解けの水が緩む頃、小川の縁を歩いていると、簡単に見つけることができました。その何本かを摘み取ると、芹の香りが漂います。物事が適わない認識はありませんが、その場面が淡い香りの記憶とともに古き良き時代の風景から切り取られたように、頭の片隅に残っています。
 肌寒いけれども晴れ渡った土曜休日は、2カ月ぶりに大槻能楽堂にでかけました。能の魅力を探るシリーズ「世阿弥生誕650年記念」公演です。写真は開演30分前の風景ですが、ほぼ満席の賑わいでした。最前列に座った私は、能楽研究者・松岡心平先生の講話を聞いた後、「年々去来の花」を見せた観阿弥の代表作「自然居士(じねんこじ)」をご鑑賞です。
 場面は京の都、東山。居士が神社再建の寄進を募るための説法をしていると、14,5歳の少女が小袖を供え亡き両親の追善を願い出ます。そこへ東国の人買い商人が現れ、少女を連れて行ってしまいます。少女が御供えした小袖が自分の身を売って得たものだと知った居士は、説法を止め商人を追います。今まさに琵琶湖西岸の大津の河畔から船出をしようとしています。居士(シテ)と商人(ワキ)のやり取りが始まります。汗握る場面が続きます。そして居士は少女を取り戻します.....。絶妙のリズム感が漂う場面展開にのめり込んでしまいました。
 日頃、多様な動きの中で複雑に絡み合う人間関係に右往左往している現代人にとって、あまりにもシンプルな勧善懲悪劇は、子供の頃に見た紙芝居に近いものがあります。絡み合った釣糸を丁寧に解していくような、そんな贅沢な時間が、そこにはありました。
 世阿弥の風姿花伝の中に「年々去来の花を忘れぬことだと」という言葉があります。ついつい、レビンソンの「ライフサイクルの心理学」と重ねあわせて考えてしまいますが、「幼い頃の容姿、初心の時の技、油の乗った時分の演技、老年のたたずまいなど、その時代時代に自然と身についた芸をすべて今、一度にもつべきである」と世阿弥は言います。
 ところで、京阪電車天満橋駅から歩いて大槻能楽堂に向かう途中、道の両側に大阪府警とNHK大阪放送局が立ち並ぶ一画に大きな楠木が立っています。その根元にはオランダ人科学者であるハラタマ博士(1831~1888)の胸像と「史跡舎密局跡」の石碑があります。大阪舎密局は、日本最初の理化学専門学校として明治2年に開校した学校で、ハラタマ博士はそこの教頭先生でした。石碑には、「明治2年5月1日政府はこの地に物理化学を専攻する舎密局という学校を開設した。この場所はその遺跡の一部である。 この学校はその後度々名称を変えて明治19年第三高等中学校となり明治22年8月京都市吉田に移り明治27年9月から第三高等学校となった。現在の京都大学の教養部である。この樟樹は舎密局の生徒が憩う緑陰として当時からあったという」と記されています。
 都会の真ん中にひっそりと佇むハラタマ博士の胸像を眺めながら、ここに近代日本の物理化学の出発点があったことを思うと、心が熱くなります。道すがらピンクのライラックにも出会いました。距離を置いて現実の我が生き様を見つめる心の余裕をもつこと。春の一日、束の間の休息をいただきました。

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草木の芽生えに生命の力を思う

2014-04-13 09:01:28 | Weblog

  きょうは少し肌寒い朝を迎えました。愛犬ゴンタとお散歩にでかけると、桜の花はいつの間にか散っていて、若葉がのぞいています。春を迎えた草花も、いったん小休止ということなんでしょう。そんななか、ライラックの花が、いよいよ開いてきました。
 昨日は午前中、春の陽を全身に浴びて、久しぶりに畑仕事をしました。この春はカブが食べ切れないほど出来て、それを放置しておいたら、いつの間にか菜の花畑になっていました。そろそろ次の作物を植えなければならないので、一本、また一本と引き抜きながら、しかし全部抜いてしまうのがもったいなくなって、途中でやめました。畑を耕すのはもう一週間遅らせましょう。
 そんな土休日の午後は、PCオーディオまわりの整理をしました。といっても、これまで部分的に繫いだり外したりしていた接続を最適な形で固定しただけです。BGM代わりに楽しむときは、アンプを介さず、パソコンとUSB DACをメインに、スピーカーもBOSEのアクティブスピーカーを繫ぎました。歳をとったからでしょうか。肩肘はらず自然に音楽の中に身をおくことができます。これだけなら本棚に載る程度の大きさになります。窓を開けて、春の空気が充満した部屋に美しい音の世界が広がります。もちろん、旧来のシステムで楽しむできるように簡単に接続変更を可能にしました。これで当分、私の音楽空間は落ち着くのでしょう。
 さっそくLP「グレゴリオ聖歌集(第1巻)」に針を落としてみます。妙な音圧もなく、自然に耳を和ませてくれます。第1集「待降節と降誕節」、第2集「聖母マリアの祝日ほか年間の聖務日課など」。「第2巻」の第1集「復活祭」、第2集「聖霊降臨祭」。わたしはクリスチャンではありませので、意味はわかりませんが、それでも大聖堂に響きわたる聖歌隊の澄み切った歌声に心の安らぎを覚えます。ミュンヘン・カペラ・アンティカ聖歌隊、指揮はコンラート・ルーラントでした。LPレコードを聴きながら、並行してデジタル化をすることも忘れません。
 そういえば、ここ数週間、孫君たちに会っていませんが、先日、長女からピカピカの小学1年生になった孫長男君の写真が送られてきました。嬉しそうに制服を身に着け帽子を被った長男君が次男君と一緒に映っています。仲良し兄弟です。いよいよ長男君も小さな第一歩を歩み出したということでしょう。
 そうそう、先日帰宅すると玄関口にある水槽の壁面に、プレコ君が大きなお腹を見せて私の帰りを歓迎してくれました。我が家に来たのは2年前。水槽のお掃除屋さんです。5センチほどの小さなプレコ君でしたが、今やこんなにも大きくなりました。
 春を迎えて、すべての生き物が動き出していくのを実感します。生命の力というのは予想をはるかに超えて存在しています。それを季節の移り変わりで実感する。やはり四季はメリハリがあって良いですね。この微妙な環境の変化が、知らず知らずのうちに内面を動かす。それが次の大きな躍動感に繋がっていく。人生の楽しさって何?と問われれば、結局こういうことなんだろうなあと、愛犬ゴンタ君と日向ぼっこをしながら思ったものです。

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春の訪れ、そして逝く人

2014-04-06 08:19:16 | Weblog

 日曜日の朝、新聞を取りに外に出ると、遠くから「ホーホケキョ」と鶯の鳴き声が聞こえてきます。生駒の山懐から飛んで来たのでしょう。ここ大阪は昨夕から雨模様。でも、今日は少し肌寒さはあるものの、雨もあがり静かな朝を迎えています。
 昨日の土曜休日、昼間は薄らと晴れ間も覗くお天気でした。なので、春を探してカメラを片手に庭をうろうろ。まずは玄関口の階段ボックスのムスカリの花をぱちり。何年か前にお向かいの奥さんから分けてもらったものですが、昨年の秋、球根を植え直したところ、今年もたくさん咲いてくれました。
 フェンスにからませたアケビの蔓には、アケビの花が咲きました。このアケビ、むかし湖北の山小屋の裏の林で引き抜いてきたものでした。自然の中ではたくさんの実をつけていたアケビですが、我が家では花は咲いても実がなりません。今年は花数が多いので、ちょっぴり期待しています。
 山小屋といえば、先日、管理人さんから久しぶりにお電話をいただきました。今年は雪が多かったらしく2本のクヌギの大木が折れ枝が電線に引っかかっているのだと。見栄えもよろしくないので、伐採してもらうことにしました。若い頃なら出かけて行って、専門家の手を借りながら私も一緒に伐採作業に汗を流すところですが、今回はぜ~んぶお任せしました。しめて2万円なり。後日送っていただいた写真を見ると、かつて家族で楽しく暮らした山小屋も、ずいぶんみすぼらしくなりました。そろそろ改築しなければならないようです。さあて、どうする。
 3月初旬から、ライラックの若木に芽生えた花芽の成長を追ってきましたが、ここ数日の暖かさのせいでしょうが、一段と大きく膨らんできました。そのうち、真っ白い花が咲き、強い芳香が庭中に漂うのでしょう。ラフマニノフのピアノ協奏曲でも聴きながら愛でることにいたしましょう。
 さて、クラシックプレミアムの最新号は、チャイコフスキーの3大バレエ音楽でした。「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の抜粋です。サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏ですが、このCD、なかなか良い音をだしています。春を迎えた躍動感のようなものを感じさせる名演奏でした。それを聴きながらのブログ更新です。


 と、お気軽なことを綴っていますが、先日、私の職場の同期が亡くなりました。4年前、職場で具合が悪くなって、その後リハビリに励んでいましたが、この季節の変わり目に63歳にしてこの世を去りました。彼はどちらかと言えば経理畑、私とは違う道を歩みましたが、40数年前、一緒に採用試験を受けた仲間でした。寡黙にして心の優しい彼だったからでしょう。昨夜のお通夜には多くの方々の姿がありました。きょうはこれから葬儀に向かいます。同期の葬儀は年齢が近いだけに、思うところ大です。ご冥福をお祈りします。

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