一昨日は仕事の関係で、奈良県吉野郡川上村におじゃましました。和歌山を流れる紀ノ川の源流「吉野川」が村の真ん中を流れ、それを吉野杉の山々が囲むという、なんとも素晴らしい村でした。立ち寄った木彫工房でいただいた一掴みの木屑の香が、いまも私の部屋に充満しています。澱んでいた頭脳の血液がさらさらと流れていくのを実感できるような、そんな贅沢な気分になります。
さて、きょうは、小林秀雄を耳で聴くCDシリーズ「小林秀雄講演(全6巻)」新潮社に触れたいと思います。昭和という時代を代表する文芸批評家・現代批評家として知られる氏の著書は、私にとって難しい部類に入ります。しかし、難しいから拘る。私にとっての作曲家グスタフ・マーラーと同じように、難しいけれども気になってしょうがない存在。だから聴く。だから読む。これが私にとっての小林秀雄です。ことし初めの白洲正子さんとの出会いが、とんだところに発展してしまいました。
この小林秀雄の講演録CDを、先日、京都河原町に開店したジュンク堂書で見つけました。少しお高いのが難点ですが、エグゼクティブセミナーに参加することを考えればと、とりあえず第2巻「信ずることと考えること」を聴いてみました。昭和49年夏に鹿児島県霧島で開かれた国民文化研究会主催の学生合宿教室での講演録でした。起立・礼で始まり、起立、礼で終わるこの講演録で、氏は、若い学生たちに独特の口調で語りかけます。「ベルグソンの哲学」「近代科学の方法」「文学者・柳田國男」「信じることと知ること」「考えるということ」などなど、講義と質疑応答でCD2枚120分ほどかかります。それをMP3プレイヤーにダウンロードして、時間をみつけては聴きました。文字とは異なる小林秀雄の人となりを知り、私にとっては一段と身近な存在になりました。そんなわけで、きのう街中を散策した際、もう1巻買い求めました。今度は第6巻「音楽について」でした。このCDは、氏の音楽論、作曲家論、演奏家論を、実際に氏が聴いていたSPレコードの一部を聴きながら、拝聴するというものでした。少し雑音も混じるSPレコードの音に久しぶりに出会いました。
さぁて、3日から始まる連休は、久しぶりに湖北の山小屋に出かけます。もちろん、このCDと、それから相馬御風の古本をリュックに入れて。柔らかな若葉の下で、起立・礼、そんな日々を過ごしてみたいと思っています。
さて、きょうは、小林秀雄を耳で聴くCDシリーズ「小林秀雄講演(全6巻)」新潮社に触れたいと思います。昭和という時代を代表する文芸批評家・現代批評家として知られる氏の著書は、私にとって難しい部類に入ります。しかし、難しいから拘る。私にとっての作曲家グスタフ・マーラーと同じように、難しいけれども気になってしょうがない存在。だから聴く。だから読む。これが私にとっての小林秀雄です。ことし初めの白洲正子さんとの出会いが、とんだところに発展してしまいました。
この小林秀雄の講演録CDを、先日、京都河原町に開店したジュンク堂書で見つけました。少しお高いのが難点ですが、エグゼクティブセミナーに参加することを考えればと、とりあえず第2巻「信ずることと考えること」を聴いてみました。昭和49年夏に鹿児島県霧島で開かれた国民文化研究会主催の学生合宿教室での講演録でした。起立・礼で始まり、起立、礼で終わるこの講演録で、氏は、若い学生たちに独特の口調で語りかけます。「ベルグソンの哲学」「近代科学の方法」「文学者・柳田國男」「信じることと知ること」「考えるということ」などなど、講義と質疑応答でCD2枚120分ほどかかります。それをMP3プレイヤーにダウンロードして、時間をみつけては聴きました。文字とは異なる小林秀雄の人となりを知り、私にとっては一段と身近な存在になりました。そんなわけで、きのう街中を散策した際、もう1巻買い求めました。今度は第6巻「音楽について」でした。このCDは、氏の音楽論、作曲家論、演奏家論を、実際に氏が聴いていたSPレコードの一部を聴きながら、拝聴するというものでした。少し雑音も混じるSPレコードの音に久しぶりに出会いました。
さぁて、3日から始まる連休は、久しぶりに湖北の山小屋に出かけます。もちろん、このCDと、それから相馬御風の古本をリュックに入れて。柔らかな若葉の下で、起立・礼、そんな日々を過ごしてみたいと思っています。