心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

桜花に小休止

2008-03-30 11:23:01 | Weblog
 春を迎えてシジュウカラが元気に飛び交い、数軒先にある小さな公園の桜木も数日前から開花しはじめました。町内会の「観桜会」の準備も進みます。3月も末、年度変りのひとつの区切りを迎えて、この土日連休は自宅でゆっくりと過ごしました。
 昨日は特に何かをしなければならないとか、何かをしたいと思うこともないので、小林秀雄の講演CD「信ずることと考えること」に耳を傾けました。全部で2枚、およそ2時間。途中うとうとしながらも、長椅子に横たわって、青い空の淡い雲の動きを眺めながら、ぼんやりと聴いていました。
 講演は、念力で脚光を浴びたユリ・ゲラーの話に始まり、ベルグソンの話題になり、柳田國男の話題になり、最後には本居宣長が登場します。その講演のなかで小林氏は、世の中の不思議な出来事、体験を例示しながら独特の現代批評を試みます。妙な科学主義を憂い、当時のインテリゲンチャの精神の荒廃を嘆き、真摯に立ち向かう人間の在り様を説きます。
 ....「信じること」は責任をとることだ。信ずる力を失うと人間は責任を取らなくなる。すると人間は集団的になる。誰も自分の責任は問わない。「考える」とは付き合うという意味だ。だから、人間について考えるとは、その人と交わることだ。それは科学の方法では駄目だ。その人の身になって考えなければ駄目だ。しかし考えるためには、大きな想像力がいる。....小林氏の言葉が、ぐっと身に迫ってきます。自分自身の生きざま、自分自身の責任の取り方を問います。
 このあたりは、西洋と日本の認識論の違いを思います。ずいぶん前に読んだ野中郁次郎先生の「知識創造企業」には「知識は、正当化された真なる信念である」と書いてありました。近代合理主義とは異なり、極めて人間的な「信念」という言葉が使われていることに強い印象を受けたものでした。同様な視点を、小林氏の講演で思いました。
 仕事を離れ、ふだん使わない脳味噌を使って、少し別の世界に足を踏み入れてみるのも楽しいものです。なにも学問をしようというわけではありません。普通の人間が普通に生きるための、何か「ものの考え方」のようなものを、振り返ります。生きるための「こころ」の糧になります。
 本居宣長は、生涯を通じて山桜を好んだと言います。遺言状にはお墓の傍に山桜を植えることまで記しています。本居のことは松阪市に松阪肉を食べにいった際に生家を訪れた程度で、ある意味では不謹慎な出会いにすぎません。それ以上のことは全くもって知りません。桜の開花の季節を迎えましたので、今日はこの後、小林秀雄講演CDの第三巻「本居宣長」を聴いてみようと思います。
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58年目の「春」

2008-03-23 10:25:09 | Weblog
 少し肌寒い日曜日の朝を迎えました。それでも連日の勢いもあってか、街のあちらこちらに「春」の訪れを感じます。お隣の桃の花は美しく開花していますし、公園の桜並木は開花までもう一息です。ユキヤナギの花も至るところで開花です。遠くを見渡せば樹木の枝先がわずかに土色に変わる気配が見えます。こうした自然の躍動感が、私の「こころ」に心地よい元気を与えてくれます。
 そういえば今朝、愛犬ゴンタと散歩中、近所のお家では一人の若者が旅立ちました。この春、大学を卒業し、社会人として巣立っていく。真新しいスーツ姿に大きなカバンを下げて、ご家族に見送られているお子さんの姿に、ちょうど1年前の我が子の旅立ちを思い出しました。まさに同じように、末っ子がこの街を後にしました。期待と寂しさが入り混じった複雑な思いを胸に、残された夫婦2人には静かな生活が待っていました。あれから1年、息子はこの春、東京・世田谷の社員寮から横浜の単身寮に移り、ますます仕事に熱が入ります。甘ったれの末っ子に不安をいだいていた親の方が馬鹿だったのでしょう。職場に馴染んで楽しく仕事ができていることに安堵しています。
 ところで、一昨日の休日には、家内と二人で京都・知恩院にお参りをしました。修復工事が終わったばかりの八坂神社の西楼門を通って、丸山公園を横切って、知恩院の大きな三門をくぐって、それから急勾配の石段の男坂を上って、御影堂が建つ広場に到着です。そこで、お線香をあげて、元祖法然上人の御影をまつる御影堂内に。長い順番をまってご焼香のあと、しばし非日常の空間に身を委ねました。お彼岸ということもあって、次から次へと参拝の方々が続きます。 
 ふと、人影のない右奥に普段は見かけない大きな仏画が飾ってあるのに気づきました。それは大きな仏画でした。宗教心のない私には、その意味するところは定かではありませんが、それでも、何かしら極楽浄土の図であろうことは判りました。ここでもお焼香をしたあと、ずいぶんの時間、この仏画と対面をしておりました。広辞苑を紐解けば「阿弥陀仏の居所である浄土。西方十万億土を経た所にあり、全く苦患のない安楽な世界で、阿弥陀仏が常に説法している」。そんな世界なのだそうですが、考えてみれば、私も57歳を過ぎ、いつ死んでもおかしくない世代の仲間入りが直前です。そう思ったとき、不思議と「人生を達観する」という言葉がよぎりました。これまた広辞苑を見ると「一部に拘泥しないで全体を観察し、真理・道理をみきわめること。また、何事にも動じない心境に到ること」。納得です。ここで、ジタバタしてもしようがありません。真正面を見つめながら、とにかく行きつくところまで行って、静かに幕を閉じる。これが、私の生きざまのような気がしています。
 きょうは、マルタ・アルゲリッチが奏でるメンデルスゾーンのピアノ三重奏、ベートーベンのピアノ四重奏、モーツアルトのピアノソナタを聴きながら、58年目の春を迎えた私自身の生きざまを考えました。 
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都会の小さな卒業式

2008-03-16 10:08:19 | Weblog
 ここ数日の暖かさのせいでしょうか。庭先にあるブルーベリーの花芽が大きく膨らんできました。その片隅にはフキノトウが顔を出しています。バス通りの大きな柳の木の枝先には、早くも淡い緑の花芽が薄っすらと色づいています。気づかないうちに、「春」は確かな足取りでやってきています。
 そんな日曜日の朝、いつもどおり愛犬ゴンタとお散歩をしていると、後ろから何台もの消防車が、サイレンを鳴らし、鐘を鳴らしながら通過していきました。少し経って、どす黒い煙がのぼっているのが見えました。なんと、近所の小さなレストランの屋根からもくもくと煙がのぼっているではありませんか。たくさんの消防士さんがホースをもって建物に突入していきます。大事には至らなかったようですが、休日の緩んだ心をきりりと引き締める初期対応の素早さに頭が下がりました。「安心」「安全」を支える消防署の使命の大きさを思いました。それにしても、新建材によるものなのかどうか、辺りが暗くなるほどの煙の多さと鼻をつく臭いに驚きました。最近、火事でお亡くなりになるケースが多い原因は、その大半が煙のせいなんだと思ったものです。
 妙な書き出しになってしまいましたが、昨日は、縁あって都会の小さな私立中学校の卒業式に招かれました。卒業生が20数名、というと、なんだか田舎の学校のような感じですが、まぎれもなく大きな都市にある男子中学校の卒業式でした。父母・関係者の方がだんぜんに多い卒業式でした。わたしは3人も子供がいながら、子供たちの卒業式には顔を出したことがありませんので、興味津津で出かけました。1時間あまりのセレモニーの最後は、「仰げば尊し」や「蛍の光」といった卒業式の歌を、まだあどけなさが残る卒業生と在校生が歌いあう場面。大切な何かを思い出させるものでした。
 少子化の時代、以前ほどに生徒が集まらない時代、その意味での学校経営の難しさを垣間見る思いですが、少し歩けば繁華街に行ける立地にあって、誘惑もふんだんにある環境のなかで、そんな都会の魅力にめげることなく、ほんとうに素直な初々しく育っている子どもたちの姿に感銘を受けました。先生方の熱い「こころ」の成果なんでしょう。きっと。改めて初等中等教育の重要性を思ったものです。
 2週続けて卒業式の話題になりました。今週半ばにはお彼岸の入り。休日には、久し振りに京都・知恩院にでもお参りしませうか.......。その前に、きょうは近所のホームセンターにでかけて花の苗でも買ってきて庭のお手入れをすることにいたします。あとは、ゴンタと日向ぼっこです。 
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新しい旅立ちの季節

2008-03-09 10:08:40 | Weblog
 まだ少し肌寒いのだけれど、窓をあけて春の陽を部屋に招くと、なんだか気分爽快になります。淡い青空から目一杯の元気をいただいて、いま「在る」ことに感謝する、そんな休日の朝を迎えました。
 ところで、啓蟄も過ぎ、2007年度を締めくくる時期になりました。昨年の4月に新しい職場に異動になって、およそ1年。とにかく突っ走ってきた1年でした。その間、大きな仕事を3っつ抱えて、いまも現在進行形。決着がつくというよりも、勢いにまかせてとにかく物事が進んでいる、そんな落ち着きのなさを感じながら、これも致し方ないことなのだと自らに言い聞かせています。
 そんな私の1日は、通勤途上の喫茶店から始まります。朝6時45分を目途に家を出ると、職場の最寄駅に7時30分に到着します。その駅の近くにある喫茶店が1日の起点になります。30分をかけて、まずは超整理手帳と睨めっこです。つぎは、ポストイットを取り出して、その日のうちにこなさなければならない仕事を思いつくままに書き出していきます。大きなことも、小さなことも、浮かんだことはすべて紙に書き込んでいきます。大きな仕事については、留意すべき変動要因を横目に対策を練ります。その30分間が、おそらく私にとって1日で一番集中している時間なのかもしれません。
 8時を過ぎると、おもむろに手帳をしまい、店を後にします。今度は、NHK・FM「ミュージックプラザ」でクラシック音楽に耳を傾けながら、徒歩20分で職場に到着です。.....こうして、私の1日が始まります。こんな生活が何年続いているのでしょうか。喫茶店のアルバイトのお姉さんも何人か交替しました。例年、3月の卒業の時期を迎えると、ときどき、「きょうが最後なんです」って挨拶をしてくれる方もいます。「卒業ですか。おめでとう」と。そんな日は、なんだか嬉しくなります。前途多難な人生に幸多かれと祈るばかりです。
 卒業する人、入学する人。就職する人。配置転換で新しい仕事に就く人。めでたく定年退職をお迎えになる人。3月、4月は、多くの人にとって新しい旅立ち、人生のひとつの分岐点になるような気がします。それを、樹木の芽だちが祝福する。そこから何か元気をいただく、そんな季節を迎えることになります。
 どういうわけか今日は、本田美奈子さんの「AVE MARIA」を聴きながら、萎えた「こころ」を労わりながら、明るい春の陽の下でブログ更新をいたしました。
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轍(わだち)

2008-03-02 10:30:34 | Weblog
 久しぶりに晴れやかな休日の朝を迎えました。3月を迎えて、ここ大阪の朝方の気温は4度。一進一退を繰り返しながら、かすかに「春」の足音が聞こえてきそうです。少しウキウキ気分も手伝って、きょうのBGMはベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調作品24<春>」を選びました。演奏は、アルゲリッチのピアノ、クレーメルのヴァイオリンです。
 3月のカレンダーをめくり、ぼんやりと椅子に座ってこの1週間を振り返ります。会議、採用面接、経済団体の会合、出張......。あっという間でした。あと数週間は息が抜けません。だから、せめて日曜日ぐらいはゆったりとした時間を過ごしたい。ステレオのボリュームをぐんとあげて、音の世界に身を置きます。
 仕事といえば、2日前の夜遅く、物置の奥の段ボール箱をひっくり返して昔読んだ法律関係の本を何冊か持ち出しました。大半は学生時代のものです。我妻栄の「民法」(一粒社)、川島武宣の「民法総則」(有斐閣)など。仕事のなかで「権利能力なき団体」「代表権」という言葉の理解が必要になって、ぼんやりと「そういえば昔習ったことがある」というわけです。他愛ないことですから用件自体はすんなり解決したのですが、久し振りに民法なるものを眺めて、それが私の仕事のベースになっていることを改めて知ることになりました。法曹界とは無縁であっても、大学時代に染みついたリーガルマインドのようなものが、私の30数年の仕事生活を支えていたことになります。といっても、あまり勉強はしませんでしたが。少し読み返してみようと思っています。
 やはり人の一生というのは、漠然としているようで、ひとつ繋がっているように思います。どういう場面に身を置こうとも、生身の人間としての私がいます。泣いたり、笑ったり、怒ったり、落ち込んだり、楽しんだり...その総体としての「私」が存在します。その時々の積み重ねのうえに、今があることを思います。情報の氾濫、価値観の多様化などと言われ、根無し草になりかねない現代人にとって、ときどき足元を見つめなおす時間が必要なんだと思いました。
 部屋の窓辺に暖かな春の日差しが眩しく輝きます。さぁ、きょうはこれぐらいにして、愛犬ゴンタと一緒に花壇のお手入れでもすることにいたしましょう。
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